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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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十一. 迷夢

 


 短時間で最低限の準備を済ませた静麗ジンリー芽衣ヤーイーは、居間で疲れた様に椅子に座り込んでいた。

 時刻はかなり遅くなっていたが、幸い皇帝陛下はまだ月長殿を訪れていない。



 何とか体裁を整えることが出来た静麗は、大きく息を吐いた。

 だが、前回のお渡りとは違い、今回は先触れからお渡りを受けるまでの時間が余り無かった為に、静麗の心の準備は全く出来ていなかった。



 ―――何とか受け入れの準備は整ったけれど、浩然ハオランは、…いえ、陛下は一体何を考えているの? どうしてまた私の元に来るの? 前回は私に名を呼ぶなと言った上に、何も話してくれなかったくせに……



 静麗は皇帝陛下がやって来るという不安を押し殺す為に、心の中で皇帝陛下に不満をぶつけた。

 そうして平常心を保とうとしていると、月長殿の外から人の気配がしてきた。



 芽衣が静麗の方を窺うと、静麗は一度深呼吸をした後、大きく頷いた。

 静麗の表情を確認した芽衣は、皇帝陛下を迎える為に居間から静かに退出していった。






 暫くすると芽衣に先導されて皇帝陛下が居間へと入って来た。


 応接間では無く居間に、それも侍従や侍女では無く、いきなり現れた皇帝陛下に静麗は唖然としていたが、直ぐにはっとすると椅子から立ち上がり、その場に跪こうとした。


 しかしその前に皇帝陛下は手で静麗の動きを制した。


「よい、そのままで」


 ゆったりと落ち着いた声音でそう告げると、皇帝陛下は静麗を椅子に座らせたまま、居間の中をゆっくりと見回した。


 皇帝陛下は初めてのお渡りの時の様な豪奢な衣装ではなく、ごく普通の貴族の様な衣装に身を包んでいた。

 皇帝陛下が月長殿の様子を見ている間、静麗も目の前に存在する皇帝陛下の姿を見ていた。

 これ程の距離で皇帝陛下と会うのは、前回のお渡り以降初めてだ。



 一通り居間を眺めた皇帝陛下は静麗に向き直ると、椅子に座ったまま己をぼんやりと見上げていた静麗に声を掛けた。



「……不便は、無いか」



 皇帝陛下の突然の問いかけに、静麗は言葉に詰まった。



 もし、その問いかけを一年前にして貰えていれば、言いたいことや願いは沢山あった。

 しかし、皇帝陛下の側室となってしまった今、静麗に言える言葉は何も無かった。



 静麗は目を伏せて小さく答えた。


「御座いません」

「さようか…」


 静麗の答えを聞いた皇帝陛下は小さく嘆息した様に見えた。



 ―――もしかして、そんな事を聞きに態々こんな後宮の最奥まで来たの?



 静麗は皇帝陛下の行動の意味が分からずに眉を顰めた。


 しかし、ふと思い立って静麗は皇帝陛下の顔を見上げた。


「陛下、月長殿の改修や禄の件では、私の身に余るご厚情を頂き、誠にありがたく存じます」


 静麗は丁寧に頭を下げ、その姿勢のまま皇帝陛下の良いという言葉を待った。


 だが、何時まで待っても声が掛からずに、訝しく思った静麗は、そろそろと顔を上げて皇帝陛下を見上げた。

 目が合った皇帝陛下は、苦い顔をして静麗を見下ろしていたが、ふっと小さく息を吐くと目を閉じた。



 暫くその場で佇んでいた皇帝陛下だが、緩やかに後ろを振り返った。

 その動きを追って静麗も皇帝陛下の後ろを覗き見た。

 其処には夕刻使者として訪れた蘇と、近衛武官が二人控えていた。

 皇帝陛下が初めて月長殿を訪れた時には、イェン 明轩ミンシュェンを初め多くの随行が居たが、今宵は僅かな従者しか伴っていない様だった。


 その従者達を見るとはなしに見ていると、皇帝陛下の声が聞こえた。


「暫し、待て」


 皇帝陛下の命を受けた蘇と武官はその場で恭しく頭を下げた。


 そして静麗に向き直った皇帝陛下は、椅子に腰掛けたままの静麗を見詰めると、そっと手を差し伸べてきた。





 静麗は椅子に座ったまま、目の前に差し出された皇帝陛下の手を呆けた様に見詰めた。


 故郷に居た頃には何度も何度もこうやって差し出されてきた、大好きな大きな手だ。

 骨ばっていて、しかし長い指が美しい手だ。


 それを静麗は無言で見ていた。




 ―――…あ、掌にたこが出来ているわ……



 武官である グゥォ 伝雲ユンユンの手にも同じようなたこが出来ていた。

 静麗はぼぅとした意識のまま、皇帝陛下の以前とは少し変わった大きな手を見ていた。




「…蒋貴人。……手を」



 差し出された手を見詰めたまま動かない静麗に対して、皇帝陛下が静かに声を掛けた。

 はっとした静麗は手から視線を外すと皇帝陛下の顔を見上げた。




 皇帝陛下の懐かしい声で、蒋貴人と呼ばれる事に、心の奥が軋んで痛みを感じた。

 そして、今宵皇帝陛下は用事があって月長殿を訪れた訳では無く、静麗を側室として扱い、伽をさせるつもりだと理解して唇を噛みしめた。



 皇帝陛下は立ったまま、じっと静麗に手を差し出し続けていた。




 ―――もし、…もしも私がこの手を払いのけたら、貴方は一体どんな顔をするの?



 直ぐ側にある端正な皇帝陛下の顔を見詰めながら静麗はそんな誘惑に駆られた。



 ―――出来る筈ないわ。…相手は夫であった浩然ではなく、この国の皇帝陛下だもの……




 静麗は諦めの心境でゆっくりと手を伸ばし、皇帝陛下の大きな手の上に自分の手を重ねた。

 皇帝陛下は己の掌の上にある小さな手をきゅっと握ると、椅子から立ち上がらせた。


 そして皇帝陛下は静麗の手を引いて奥の寝室へと向かい歩き出す。

 その二人の後ろでは蘇と武官の二人が頭を下げて見送り、芽衣は心配そうにしながらも蘇達と共に頭を下げた。









 寝室へと入った静麗と皇帝陛下は燭台が一つ灯されただけの薄暗い部屋の中で向き合った。



 皇帝陛下は暫く静麗の顔を見ていたが、すっと手を伸ばすと静麗の頬に触れた。

 その大きな掌で、確かめる様に静麗の輪郭をなぞっている。


 静麗は懐かしいその感触に、目を閉じた。



 その大きく温かな手を、……他の女性を抱いたその手を払いのけたい思いと、その手に猫の様にすり寄りたい思いが交互に沸き上がる。


 閉じられた静麗の目の縁に涙が滲んできたが、静麗は涙を耐える為にきつく目を閉じた。

 皇帝陛下は、そんな静麗の眼尻に滲んだ雫を親指で優しく拭うと、静麗の腕を引き寄せて抱き締めた。



 小柄な静麗の身体は、この一年で逞しさを増した大きく温かな皇帝陛下の腕の中に囚われた。

 皇帝陛下は身を屈めて静麗の首元へその麗しい顔を伏せると、微かに聞こえる程の小さな声で言葉を紡いだ。


 静麗は驚いて顔を跳ね上げようとしたが、その前に顔を皇帝陛下の胸に押し付けられた。

 皇帝陛下の少し早い鼓動が、静麗が押し付けられた胸から聞こえてくる。

 きつく抱き締められている静麗は、まるで皇帝陛下に縋り付かれているような感覚に囚われ困惑した。







 その後、皇帝陛下は静麗を腕の囲いの中から解放すると、その腕を引いて二人は古びた寝台の上に共に上がった。




 そうして、僅かな時間を最下位の側室と過ごした皇帝陛下は、侍従や近衛に守られ傅かれながら月長殿を後にしたのだった。





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