十. 予兆
葉 彩雅は宣言通りに再び月長殿を訪れた。
以前であれば供も付けずに一人で出歩いていたのだが、その日は先触れの使者が来た後に、輿に乗って侍女や武官と共にやって来た。
対応した芽衣が直ぐに彩雅と侍女を応接間に案内し、その後を追うようにして静麗も応接間に入った。
「ようこそお出で下さいました、葉貴人様。大したおもてなしも出来ませんが、歓迎いたします」
静麗が挨拶をすると彩雅も鷹揚に頷き返事をした。
「えぇ、お邪魔するわ。あぁ、貴女達は下がっていなさい」
彩雅は応接間に入ると直ぐに控えていた侍女達を部屋から外へと出した。
「あぁ、もう。…陛下のお渡りを受けた後から侍女達が煩いのよ。お蔭で一人で出歩くことも出来なくなったわ」
そう愚痴を零すと、改めて応接間を見回して首を傾げた。
「蒋貴人。随分と殿舎が綺麗になっているわね。でも、貴女禄が少ないと仰っていたのに、大丈夫なの?」
静麗が唯の平民で後ろ盾が無い事を知っている彩雅は疑問を感じたようだ。
静麗は少し躊躇した後、皇帝陛下のお渡りを一度お受けした事と俸禄が増えた事を正直に伝えた。
彩雅が本来なら隠しておきたい己の話を静麗に伝えてくれたのだから、静麗も彩雅に対しては真摯に向き合いたい。
話を聞いていた彩雅は段々と眉間に皺が寄っていき、最後は大きく溜息を吐いた。
「そう、貴女もお渡りをお受けしたの。……本来なら喜ばしい事なのでしょうけれど、貴女の立場だと複雑ですわね。…でも、禄が増えたのは喜ばしいわ。貴女の装いもこれで少しは側室らしくなるでしょう」
そう言って口角を上げると気丈に笑った。
同じ側室の立場として、静麗にお渡りがあったと聞いた彩雅の態度が変わることを多少は懸念していたのだが、思っていた以上に彩雅は自制心があるようだった。
「でも、陛下は何故、今更貴女の所に来られたのかしら……」
金の美しい装飾の爪飾りを着けた白く細い指を口元に持ってゆき、独り言の様な小さな声で彩雅は呟いた。
同じ側室の立場としては、多少の嫉妬心はあるのだろうが、其れよりも何故皇帝陛下が長期間放置していた元夫人である静麗の元に訪れたのかが気になる様だった。
「高位の側室様達が今お忙しいから、気まぐれを起こされたのではないかしら」
「…そうなのかしら。……でも、陛下が今までお渡りしてきた側室達は皆が……」
そこまで言うと彩雅は静麗の顔をまじまじと見てきた。
「葉貴人様?」
「いいえ、何でもないわ。…憶測で陛下の事を話すのは不敬になるわ」
そう言うと目を閉じて息を吐いた。
◇◇◇
皇后娘娘の生誕を祝う宴から半月以上の日が過ぎた頃、月長殿に一人の使者が訪れた。
その日も夕餉の後、静麗は居間で芽衣と共に寛いで過ごしていた。
最近は何の問題も無く平穏に過ごし、また貴人位の側室である彩雅とも縁を新たに結び、落ち着いた日々を静麗は送っていた。
そんな平穏な日々の中、夕餉の後のお茶を芽衣と楽しんでいる最中、皇宮からの使者が一人月長殿にやって来た。
芽衣が応接間に使者を案内している間に、静麗は皇宮からの使者に対応する為に見苦しくない程度の身嗜みを整えていた。
―――皇后娘娘の生誕日の宴も終わったし、もう今月は何も大きな行事は無かった筈。それに、こんな遅い時間に使者が来るなんて初めてだわ。一体何の用があるのかしら
静麗は不安を押し殺して応接間で待つ使者の元へと赴いた。
静麗が応接間に入ると、一人の若い男性が立っていた。
男性は静麗に気付くと直ぐに跪いた。
「使者殿。お立ち下さい。用件をお聞きいたします」
静麗は椅子に腰掛けると直ぐに男性へと声を掛けた。
側室となってかなりの月日が経つが、未だに自分よりも年長者や、高位の人物に跪かれ、傅かれることには慣れない。
「蒋貴人様。突然の訪問、誠に申し訳御座いません。私は 透輝宮 曙光殿に勤めております蘇と申します」
男性の言葉を聞いた静麗は驚きに言葉を失った。
曙光殿とは代々の皇帝陛下が住んできた特別な殿舎だ。
其処から来たという事は、この男性は皇帝陛下からの使者であるという事になる。
静麗は己の鼓動が早まるのを感じた。
ごくりと唾を飲み込んだ所で、男性の名に聞き覚えあることに気付いた。
「蘇殿と仰られましたか?…もしや月長殿に禄を運んでくださっている官吏の方と何かご関係が?」
「はい。蒋貴人様。此方に参っている官吏は、私の弟になります」
静麗の疑問に蘇は笑顔で答えた。
「まぁ、そうでしたか」
何という偶然かと静麗は驚いたが、先に皇帝陛下からの用件を聞かなければと居住まいを正した。
「それで、曙光殿から一体どういったご用件で参られたのでしょう」
背筋を伸ばして側室としての対応をする静麗に、蘇はその場でもう一度跪くと、両手を胸の前で組み、使者として皇帝陛下の意を恭しくその側室へと伝えた。
「蒋貴人様に申し上げます。…今宵、月長殿へ皇帝陛下のお渡りが御座います。急な事では御座いますが、その御積りでご準備をお願い致したく、参上いたしました」
皇帝陛下が、今宵月長殿へとやって来る。
使者が告げた驚きの言葉に静麗は固まった。
「……蘇、殿。……ここは、月長殿です…」
「はい。勿論存じております、蒋貴人様」
驚きと混乱で譫言の様に呟いた静麗の言葉に、蘇は真面目に応えた。
「…………」
絶句して言葉も無い静麗に対して、蘇は穏やかな目で見つめた後、もう一度恭しく頭を下げると退出の挨拶を述べ、月長殿から去って行った。
一人応接間に取り残された静麗は混乱していた。
―――どういう事? 貴人位の側室の所には二度のお渡りは無いと葉貴人様は確かに言っていたのに。それは間違った噂だったの?
静麗は混乱の中にあったが、ふと窓の外が暗くなっているのに気付き、椅子から立ち上がった。
―――今宵来るって、もう夜じゃない!
皇帝陛下のお渡りは、側室が皇帝陛下と閨を共にするだけでは無く、様々な準備をしなくてはならない。
皇帝陛下付きの従者や近衛武官が控えている間の歓待なども、本来は側室が用意するものだ。
驚きから立ち直る暇も無く、静麗は蘇を見送って戻って来た芽衣と共に準備に奔走する事になった。




