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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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九. 友誼

 


 馬車から降り立った イェ 彩雅ツァィヤーは侍女を一人伴なって静麗ジンリー達の方へと歩いて来た。

 時刻は夕刻に向かっていたが、まだ陽は高い位置にあり、彩雅の様子が良く見えた。

 相変わらず豪華な衣装に沢山の装飾品を着けていて、如何にも貴族の姫君といった様相をしている。


 そうして見ているうちに静麗の前まで来た彩雅は、暫く無言で静麗を見た後、静かに口を開いた。


「お久しぶりね、ジィァン貴人」

「はい。ご無沙汰しております葉貴人様」


 静麗が彩雅とこうして間近で話をするのは、彩雅から皇帝陛下のお渡りをお受けしたと聞いた日以来だ。

 わざわざ馬車から降りてまで、一体何の用があるというのか、静麗には想像出来ずに鼓動が少し早まった。



 彩雅はそこで自分に付き従っていた侍女を振り返ると、下がりなさいと命じた。

 それを見た静麗も芽衣ヤーイーを振り返ると頷いた。

 芽衣は頭を下げると彩雅の侍女と共に、二人の側室達の話が聞こえない位置まで下がって控えた。



 静麗は久しぶりに会う彩雅が、以前と少し雰囲気が違う事に気付いた。

 以前の自由奔放で一人で出歩いていた時とは違い、侍女達の目があるからか、今は淑やかな高位の貴族然として見える。



 彩雅は暫く静麗を見ていたが、目を伏せると漸く口を開いた。


「蒋貴人。…貴女の事を聞いたわ」


 静麗は彩雅の言葉を聞いて、はい、と小さく頷いた。


 きっと静麗が唯の平民で、皇帝陛下の元夫人であるという事を誰かから聞いて知ったのだろうと察した。

 彩雅がその事をどう思って静麗の前に立っているのか分からずに、ただ黙って彩雅の言葉を待った。



「貴女は……以前は、陛下の夫人であったかもしれませんが、今は私と同じ側室です。ですから、私が以前貴女に告げた言葉に関しては謝りませんわ。……ですが、一つだけ、貴女に教えて差し上げます」


 そこまで言うと、彩雅は眉を寄せて苦い顔をすると静麗から顔を背けた。


「陛下は、貴人位へのお渡りはほぼしないわ。そして、私を含めて二度お渡りをお受けした貴人は、一人も居ないのよ」




 静麗は他の側室達と交流を持っていない。

 そして侍女は芽衣唯一人で、芽衣は静麗に皇帝陛下の後宮内での行いを告げる事は無い。

 その為、此れまでは皇帝陛下がどの側室の元へ通っていたのかなど、静麗には知る由も無かった。



 静麗は彩雅の告白を驚きを持って聞いていた。


 彩雅は少し陰りのある表情をしていたが、直ぐに毅然とした顔をすると静麗に向き直った。


「私は陛下のお渡りをお受けして、機会を得ていたというのに、それを活かせなかった。私には陛下を惹きつけられる魅力が無かったという事です。それに、私はそのただ一度の機会で、陛下の御子を授かることが出来なかったわ」


 静麗はどう返事をして良いのか分からなかった。

 静麗にとっては皇帝陛下とは元夫でもあったが、側室達にとっては、皇帝陛下とはどういった存在であるのだろう。

 静麗は複雑な思いで彩雅の顔を見詰めた。


 先程彩雅は謝らないと言っていたが、たった一度の皇帝陛下との逢瀬の後は、一度も寵を頂けずにいたと静麗に告白した。

 この矜持の高い女性は、一体どれ程の想いでそれを告げてくれたのだろうか。

 静麗に矜持を曲げてそれを告げたことが、彩雅なりの謝意の現れなのかもしれないと感じた。



 静麗は彩雅に対して拱手すると深く頭を下げた。

 彩雅はそんな静麗をじっと見た後、ふっと力が抜けた様に笑った。



「蒋貴人。私はおそらく陛下の寵をお受けすることはもう無いでしょう。……今思えば、あの時の陛下は…」


 そこまで言うと、彩雅は首を緩く横に振った。


「陛下の寵を諦めた訳では無いけれど、他の側室達の様に陛下を巡って醜い争いをすることは、私の矜持が許さないわ。例えこの先、陛下の寵愛を受けることが無くとも、私はこの寧波ニンブォの皇帝陛下の側室として誇り高く生きて行きますわ。それを貴女には言っておきたくて」

「……葉貴人様」


 貴人という低位の側室ながら、彩雅には己の信念のような物があるのだろう。

 静麗は、そんな彩雅の毅然とした姿を眩しく思った。



 ―――私も側室として後宮で生きていく決意をしたけれど、私だけではないのだわ。例え貴族であろうとも、この後宮という小さな世界に閉じ込められているのは皆同じ……



 静麗は初めて他の側室達がどの様な思いでこの後宮で過ごしているのかに考えを巡らせた。



 彩雅は言いたいことを全て話し、すっきりした顔で静麗に声を掛けた。


「では、蒋貴人。私は行きますわ」


 そう言うと踵を返し、歩を進めた。

 しかし、数歩歩いた所で立ち止まると、静麗を振り返った。


「蒋貴人。………もし良ければ、また貴女の刺繍を見に殿舎を訪ねても宜しいかしら?」

「…えっ?」


 静麗は彩雅の思いがけない言葉に戸惑った。

 彩雅は持っていた扇を広げると、口元を隠して静麗の視線から目を逸らした。


「陛下の寵を他の側室の様にみっともなく縋る気は無いのだけれど、そうするとする事も無く、毎日とても暇なのよ。この辺りの貴人達とは話も合わないし、どうかしら?」


 静麗から視線を逸らしたまま、少し早口で喋る彩雅を静麗は思案しながら見ていた。


 彩雅の話が本当なら、貴人の側室には一度のお渡りしか無いという事だけれど、其れなら、この先は静麗にも彩雅にも皇帝陛下の訪れはもう無いという事だ。

 仮に、彩雅にお渡りがもう一度あったとしても、今の静麗はあの頃とは違う。

 覚悟も出来ている。



 静麗は彩雅を見詰めて、大きく頷いた。

 あの時は迷いながら繋いだ彩雅との縁を、今度は覚悟を持ってもう一度繋ぎ直そう。

 静麗の顔に小さく笑顔が浮かんだ。


「はい。葉貴人様、どうぞ何時でも月長殿へお越しください。歓迎いたします」


 静麗の返事を聞いた彩雅は、扇の陰からちらりと静麗の顔を見ると、つんと顔を上げた気位の高そうな表情のまま鷹揚に頷き、次いで嬉しそうに笑った。



 その後、彩雅は侍女と共に馬車に乗り込むと静麗達の元から去って行った。

 離れた場所に控えていた芽衣は、心配そうに静麗を見てきたが、大丈夫だと頷いた。

 この後宮の中で、新たな友人が出来た事を後で芽衣にも話そうと考え、静麗の胸は温かくなった。




 ―――それにしても、多くの貴人様は一度もお渡りをお受けしていなかったなんて、知らなかったわ……



 静麗は先程の皇后娘娘の祝宴で見た、多くの貴人位の側室達の必死な様子を思い出して嘆息した。

 出来る事ならば、関わり合いにならずに平穏な日々を送りたいものだと静麗は願った。




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