八. 簪
月長殿の修繕された応接間から、何時もの居間へと移った静麗と春燕達一行は、その後夕刻までの時間を楽しく過ごした。
昨年の今日は、芽衣と二人で静かに過ごした静麗の誕生日を、春燕やその侍女達、そして芽衣と多くの人に囲まれて過ごすことが出来た。
そして、春燕達が帰った後、芽衣と二人で夕餉を食べた後には、芽衣から手作りの菓子が贈られた。
二人でそれらを楽しんで頂いていた時に、郭 伝雲が月長殿を訪れて来た。
芽衣が直ぐに対応し、応接間に案内をしている。
その間に静麗は身嗜みを整えると応接間に赴いた。
久しぶりに近くで見る伝雲は、武官に相応しい凛々しい立ち姿をしていた。
すっきりとした武官の官服に身を包み、腰には帯剣をしている。
そして静麗が応接間に現れると、機敏な動きでその場に片膝を突いた。
「伝雲。久しぶりね、貴女が月長殿に来るのは」
静麗の言葉を受けた伝雲は小さく笑みを浮かべて頭を下げた。
「どうぞ、立って頂戴。今日はどうしたの? こんな遅くに来るなんて珍しいわね」
静麗が首を傾げながら尋ねると、伝雲は頭を上げてすっと音も無く立ち上がると、静麗が椅子に座ったのを確認してから、懐から小さな箱を取り出した。
「蒋貴人。本日は貴女の生誕の日だとお聞きしております。此方をどうぞお受け取り下さい」
伝雲が差し出して来た箱を見た静麗は驚いた。
伝雲には誕生日の事は話していなかった筈だが、一体誰から聞いたのか。
それに、伝雲とは其れなりに親しく付き合ってきていたが、武官である伝雲が一側室に対して、贈り物などをしても良いのか、戸惑った静麗は芽衣の顔を見た。
芽衣は大丈夫だと言うように頷いた。
静麗は伝雲の手の中から箱を受け取ると、小さなその箱の蓋をそっと開けた。
其処には美しい簪が一つ入っていた。
紅水晶と紫水晶が付いた、それ程大きくは無いが上品な簪だ。
平民の中では、簪とは重要な意味が含まれている。
だが後宮に住んでいる皇后娘娘や側室達は、煌びやかな簪や髪飾りを幾つも着けていた。
簪に意味を持たせているのは、平民だけの習慣なのかもしれない。
貴族である伝雲も平民にとっての簪の意味など知らないのだろう。
しかし、と静麗は困った様に簪を見て眉を下げた。
「伝雲。貴女の気持ちはとても嬉しいのだけれど、こんな高価な物は頂けないわ」
伝雲が貴位の高い大貴族の娘であることは知っている。
もしかしたら、伝雲にとってはこの程度の品物を贈ることは、痛くも痒くもないのかもしれない。
だが、春燕の時と違い、素直に受け取れないと感じた。
「蒋貴人。その簪は貴女の為に用意された物です。受け取って頂かなければ困ります。私の様な武人の手元に残っても、使い道は無いのですから」
伝雲の勧めに、静麗はもう一度簪を見た。
確かにこの簪は静麗の好みに合致しているが、伝雲には少し合わないような気がする。
それに、此れまで伝雲が装飾品を着けているのを見たことが無い。
悩む静麗に伝雲は再度受け取ってくれと頼んできた。
静麗は申し訳なく思いながらも、伝雲の気持ちを受け取ることにした。
「ありがとう、伝雲。大切に使わせて頂くわ。でも、これで最後にしてね」
「はい、蒋貴人」
静麗の返事を聞いた伝雲は、ほっと息を吐くと、大きく頷いた。
静麗は簪を手に取って、それを目の高さに持ち上げた。
燭台の灯りを受けて、小さな水晶達は光を反射させて煌めいている。
「綺麗……」
静麗はその美しい光の煌めきを見て小さく呟いた。
本当は一目見た瞬間から、この簪に惹かれていた静麗はほぅ、と溜息を吐いた。
その日の夜遅く、静麗は寝室の椅子に座り、円卓の上に置かれた品物を眺めていた。
円卓の上には静麗に贈られた襦裙や簪などが置かれていた。
一年前のあの頃は、芽衣しか側に居ず、故郷の事を思い返しては寂しく感じていたのだが、今は、芽衣の他にも春燕や伝雲、それに一諾など、静麗の事を想いやってくれる人達がいる。
静麗はその事に感謝の想いを抱いて眠りについた。
◇◇◇
その数日後には皇后娘娘の生誕日を祝う宴が 蝶貝宮 桃簾殿で盛大に執り行われた。
静麗は春燕に贈られた襦裙を身に纏い、伝雲から贈られた簪を着けて参席した。
皇后娘娘の宮に訪れるのは随分久しぶりになる。
初めて訪れた日の事が遠い昔のような気がするが、まだ一年も経っていないのだ。
あの日、静麗は取り乱し、宴の途中で逃げる様に蝶貝宮から立ち去ったが、今ではそれら全てを現実として受け止め、平民で最下位ではあるが、側室として生きていく覚悟を決めている。
静麗は皇帝陛下がいる上座の一角を見た。
皆が美しく装い微笑みながら談笑をしている。
それらの様子を皇帝陛下と皇后娘娘は一番高い上座から静かに見下ろしていた。
皇帝陛下は偶に皇后娘娘や高位の側室達が話しかけるのに対し、頷いたり返事をしている様だが、自分から後宮の女性達に話しかけることは無く、泰然と構えている。
高位の側室達はゆったりと余裕を持って、下位の側室達は何とか皇帝陛下の目に留まろうと躍起になっているのが一番下座の静麗の席からはよく見えた。
静麗は溜息を吐き、早く終わらないかと考えながら、目の前に配膳されていた宴料理に手を付けた。
そうして、料理を食べて、歌や踊りの華やかな催しを見ていたが、ふと視線を感じた気がして上座の方を仰ぎ見た。
その時、ほんの刹那、皇帝陛下と目が合った気がした静麗はぴくりと身じろぎした。
しかし皇帝陛下は直ぐに顔を横に向けると皇后娘娘と話しだした。
此れまではどの宴や行事に出ても、皇帝陛下は静麗の方へは視線を向けたことは一度も無かった。
目が合ったと感じたのは思い違いかも知れない。
静麗は知らずに止めていた息をゆるゆると吐いた。
お渡りを一度お受けしたからといっても、静麗の立場は何一つ変わることは無かったし、皇帝陛下との関係も此れまで通りである筈だ。
―――これ程多くの身分高く美しい妻達がいるのだもの。気まぐれでも起こさない限りは私の所へなどもう来ることはないわ
宴が早く終わることだけを願い、静麗はこの豪華絢爛な場の片隅で目を伏せて溜息を吐いた。
一刻以上の時間を掛けて全ての催しが終了すると、静麗は春燕にのみ挨拶をして早々に帰路につくことにした。
他の側室達は何とか皇帝陛下の側に行こうと、上座の方では大変な人だかりになっていたが、それらを横目に芽衣と共に蝶貝宮の門から外に出た。
其処には多くの輿や馬車が犇めいていたが、静麗達はその間をすり抜けて歩いて行く。
禄が増えても、静麗達は馬車も使わずに相変わらず歩いていた。
誰よりも早くに宴から辞していたが、もう間もなく月長殿が見えるという所で、後ろから馬車の近づく音が聞こえてきた。
静麗達は振り返ると、馬車を避けるために道の端によって通り過ぎるのを待った。
しかし馬車は静麗達を追い越した所で速度を緩めると、静かに止まった。
静麗達が訝しく思い見ていると、武官が馬車の扉を恭しく開ける。
そして、馬車の中から武官の手を借りて降り立ったのは、久方ぶりに見る 葉 彩雅であった。