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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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四. 暗涙

 


 皇帝陛下が月長殿の奥にある静麗ジンリーの寝室から去って暫くすると、寝室の戸が小さく叩かれた。



「…静麗様、芽衣ヤーイーです。起きていらっしゃいますか?」


 芽衣の小さな声が戸の外から控えめに掛けられた。

 静麗は緩慢な動きで身を起こすと、戸に視線を向けて返事をした。


「えぇ。…起きているわ」

「……湯の用意が出来ております。使われますか?」


 芽衣は寝室に入ることなく戸の外から声を掛けてくる。


「えぇ、お願い」


 静麗はゆっくりと寝台から降りると、裸足のまま歩き、床に脱ぎ捨ててあった寝衣を身に着けた。


 寝室の戸を開けると、居間と寝室の間にある小部屋には芽衣が一人で立っていた。

 この小部屋は、本来は就寝する皇太后を守る為に、侍女達が寝ずの番をする場所であった。

 現在はその様な用途は必要無い為、何も置いていない空間があるだけだ。




 芽衣は目を伏せた状態で頭を下げて静麗に対して揖礼をした。


 本来なら皇帝陛下のお渡りをお受けした側室に対して、祝いと労わりの言葉を掛けるのが通例なのだが、静麗の心の内を知っている芽衣は、ただ静麗に対して深く頭を下げるに留めた。


 小部屋の中には、居間へと続く戸とは別にもう一つの戸があり、其処へ向かって静麗が歩くと、芽衣が先回りをして戸を開けてくれる。


 戸を開けた先には、脱衣場と小さな湯船が一つあるだけの、古びた浴室となっていた。

 後宮の中にある殿舎の浴室としては狭い、だが平民から見たらとても広い浴室は、黒く美しい石材が敷き詰められていた。

 昔、皇太后が住んでいた頃には立派な湯船があったらしいが、手入れもせずに放置されていた為に木で出来ていた湯船等は腐り堕ち、使えなくなっていた。

 その為、静麗が月長殿に入る前に急ごしらえで入れた小さな木の湯船は、古びた浴室を一層侘しく見せていた。


 その湯船に湯が張っているのを見た静麗は、芽衣を振り返ると小さく頷いた。


「ありがとう、芽衣。後は一人で大丈夫だから、芽衣はもう下がってちょうだい」


 皇帝陛下の訪れが遅かった為、何時もならとっくに就寝している頃だ。

 芽衣は少し迷う素振りを見せていたが、静麗がもう一度大丈夫だと告げると頭を下げて浴室から退出した。


 一人になった静麗はその場で寝衣を脱ぐと、身を清めてから湯船へと身を沈めた。







 皇帝陛下は一年ぶりに間近で会う静麗に対し、何も語ることは無かった。



 静麗は伽を申しつけられてから、もしかしたら伽とは口実で、皇帝陛下と成った夫が何かを静麗に告げてくれるのではないかと考えていた。

 それが、どんな内容になるかは分からないが、きっと此れまでの経緯も教えてくれると期待もしていた。


 だが、皇帝陛下は最後まで静麗には何も語ろうとはしなかった。

 ごく短い時間を静麗と過ごし、慌ただしく皇帝陛下の本来居るべき場所へと帰って行った。


 静麗の住む月長殿の質素な様子を見て眉を顰めていたのを考えると、この先はもう静麗の元へと来ることは無いのだろう。

 皇后娘娘や他の側室達の殿舎との違いに、月長殿に来たことを後悔したのかもしれない。



 皇帝陛下はこの一年余り、静麗の事などまるで居ないかの様に振る舞い、多くの妻を娶ってきた。

 そんな皇帝陛下の事を静麗は何時も遠くから見てきた。

 もう皇帝陛下へは何の期待もせずに、全てを諦めていた筈なのに、伽に訪れると聞いて、そして皇帝陛下の姿を目の前にして、静麗の心のどこかは期待をしてしまったのだろうか。

 まだ、皇帝陛下は、夫は自分の事を愛しているのだと、だから会いに来たのだと、考えてしまったのだろうか。


 静麗は小さく自嘲の笑みを浮かべた。


 実際に会った皇帝陛下は、静麗を一年以上に渡り放置していたことを謝るでもなく、静麗を側室とした理由を語るでも無かった。

 他の側室と同等に、否、最下位の側室として扱った。



 ―――名を、呼ぶなと言っていたわ。………浩然ハオランは、もう心まで皇帝陛下と成ってしまったのね……



 閨を去る前に見た、皇帝陛下の冷然とした横顔が思い浮かぶ。

 故郷である雅安ヤーアンに居た頃には見たことが無い表情をしていた。

 直ぐ側に居たのに、その存在をとても遠くに感じた。



 幼い頃は常に浩然の背を追って、一緒に遊んでいた。

 大きくなってからは、浩然は静麗に振り向いてくれて、常に二人は向き合って互いを見てきた。

 だが、今皇帝陛下の視線の先に居るのは、静麗ではなく、多くの後宮の女性達だ。

 そして、その女性達との間に子を儲けて、新しい人生を、皇帝陛下としての道を歩き始めている。

 分かっていた筈の現実を、今日改めて突き付けられた気がした。



 ―――もう、私の事は妻としても、幼馴染としても見てはくれないのね……



 故郷で浩然と共に過ごした、長い月日の様々な場面が幾つも脳裏を過ぎてゆく。

 静麗の瞳からは涙が零れ落ち、湯船に小さな波紋を幾つも広げた。



 ―――これで、皇帝陛下の事で泣くのは最後にしよう。……いつでも泣いていいと、泣き止むまでずっと付いていると言ってくれた、私の浩然はもう何処にも居ないのだから。此れから先の人生を、私は一人で生きていかなくてはならないのだから




 貴人位という低位の側室でありながら、皇帝陛下のお渡りをお受けしたという僥倖の中、静麗は一人湯船の中で涙を落とした。




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