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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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二. 落花

 


 皇帝陛下をお迎えする為に、湯浴みを済ませて何時もはしない薄化粧を施し、特別な寝衣を身に纏い、その上から上衣を羽織った静麗ジンリーは、居間でまんじりともせず椅子に腰掛けていた。



 普段月長殿の居間では燭台は一つか二つしか灯さないが、皇帝陛下を迎え入れる為に、現在は幾つもの燭台に火を灯し、居間の中は煌々と明るくなっており、静麗の豊かで美しい結上げた黒髪が艶めいて見えた。

 そんな中で、静麗と芽衣ヤーイーの二人は言葉を発することも無く、ただ静かにその時を待っていた。


 だが、月が天高く昇る深夜近くになり、さすがに遅すぎないかと静麗が不審に思い始めた時、先触れの使者が月長殿を訪れた。

 芽衣に先導され居間へと入って来たのは三人の男性達だ。

 直裾袍を身に纏ったこの男性達は、後宮に入れるという事は高級官吏という事になる。

 その中央に立つ男性の顔を見た静麗は息を飲んで驚いた。



 ――― イェン 明轩ミンシュェンっ!



 先頭に立つその男性の顔を見て静麗はその名を思い出す。

 朝廷の高級官吏であり、貴族でもある男性は、静麗にとっては忘れることが出来ない因縁のある人物だ。



 ―――この人が雅安ヤーアンへ来さえしなければっ



 静麗はきつい眼差しで閻を見ていたが、閻はそんな静麗の視線など感じていないかの様に澄ました顔のまま居間へと入ってくると、後ろの二人の官吏の男性を従えて揃って跪き、側室に対する礼を恭しく行う。

 そして顔を上げるとにこやかに微笑みを浮かべて、間もなく皇帝陛下のお渡りがあること、さらに、夜伽の閨での決まり事などを、懐から取り出した書を広げ、すらすらと淀みなく読み上げていく。


 皇帝陛下のお渡りを初めてお受けする側室には、高級官吏が一度のみ先触れとして訪れ、夜伽を円滑に為すために、側室に閨での規則を告げる事が後宮の習わしとなっている。

 だが、閻程の高官が、態々後宮の最奥にある月長殿まで、位の低い側室である静麗の為に訪れることなど考えられない。


 静麗はじっと閻の動向を見ていたが、閻はそんな静麗の視線を正面から受け止めると、冷めた眼をしてふっと嗤った。

 静麗は閻のその嘲笑に、己の表情が強張るのを感じた。


 閻は、平民である静麗が後宮の和を乱すことが無い様に、皇帝陛下へ不敬を働かない様に、そしてお渡りをお受けして思い上がらない様に、釘を刺す為にこんな後宮の端にある殿舎まで赴いて来たのだろう。


 静麗は動揺を誰にも覚られない様に奥歯を噛みしめた。



 ―――この男性の前でだけは、絶対に無様な真似はしたくない



 そんな思いを抱く静麗に対して、跪いたままの閻は平民の側室を見上げると、最後に今まで何人もの側室達が聞いてきたであろう言葉を静麗にも告げたのだった。



「皇帝陛下の臣として、立派にお勤め成されますように」



 静麗は膝の上で重ねていた両手を強く握りしめた。





 閻や二人の官吏、そして芽衣が居間の入口の前まで下がって暫くすると、月長殿の外から複数の人の気配がしてきた。

 官吏の一人が居間の入口から外の様子を伺い、居間に居る静麗達に対して厳かに声を上げた。




「皇帝陛下の御成りで御座います」




 静麗はどくり、と己の心臓が大きく動くのを全身で感じた。



 そして閻や芽衣達が跪いたのを見て、静麗もゆっくりと膝を突き、両手を月長殿の古い飴色になった木の床につけると頭を下げ、皇帝陛下を迎える為に拝跪をした。




 暫くするとさわさわと衣擦れの音が静麗の耳に届いた。

 そして額づいた状態の静麗の前に人が立つ気配がする。

 静麗の鼓動は緊張の為、嘗てなかったほどの速さで脈打っていた。


 今静麗の前に佇んでいるのは、嘗ては愛する夫であった浩然であり、この大国を統べる皇帝陛下なのだ。



 誰も言葉を発することなく、奇妙な緊張感が部屋に満ちた頃、閻が静麗に挨拶するように促す。

 静麗は頭を下げたまま、緊張で声を震わせ、決められた口上を皇帝陛下に奏上する。



「貴人の位を賜りました、ジィァン 静麗でございます。今宵は皇帝陛下のお渡りを賜り、恐悦至極に存じます。陛下の臣として、お役目を果たさせて頂きたく存じ上げます」



 事前に芽衣から教えられていた側室としての正しい挨拶ではあっても、静麗が皇帝陛下に言いたいのはこんな言葉では無い。

 静麗が皇帝陛下に、浩然に言いたいのは……


 古い木材の上に置かれたままの静麗の両手に力が入り、指先が白くなった。



 静麗の挨拶を受けた皇帝陛下は官吏達に向け手を緩やかに振った。

 閻と二人の官吏、芽衣は頭を下げ、両手を合わせて拱手をし、長い袖で顔を隠して皇帝陛下に身体の正面を向けたままの恰好で、しずしずと部屋から退出する。



 閻や芽衣達が退出し、二人きりとなった居間は物音一つしない静寂に包まれた。

 静麗は自分の呼吸音がやけに大きく聞こえると思った。


 頭は下げたまま、そろりと目だけを動かし、部屋に皇帝陛下と二人きりになったことを確認した静麗は、思い切って顔を上げた。


 皇帝陛下に許される前に顔を上げるなど、大変な不敬に当たるが、静麗にはそこまで気を回す余裕が残っていなかった。





 長い月日近づくことも叶わなかった、遠くからその姿を見詰めることしか出来なかった皇帝陛下は、不躾な静麗の態度を咎めるでもなく、ただ静かに佇み、静麗を見下ろしていた。




 会いたくて……本当は、―――会いたくて、会いたくて堪らなくて。



 この一年余りの長い月日、手の届かない遠い存在となってしまった、愛する夫の姿を、傷つくと分かっていても目で追うのを止めることは出来なかった。

 その焦がれ続けた夫の顔を、やっと近くで見ることが出来た静麗の息は詰まり、その瞳には涙が浮かんできた。



 ―――あぁ、浩然だ。浩然が目の前に居る。……少し痩せた? …違うわ。顔の輪郭が変わって精悍になったのね。背も伸びた? あぁ、浩然が私の前に居る。……こんなに近く、手の届く所に浩然が…………



 静麗は自分の心の中には諦めや、悲しみ、嫉妬、憎しみといった醜い悪感情の他に、恋しい、愛しい、という綺麗な思いが、まだこんなにも残っていたのかとぼんやり思う。





「浩然、……私、……」





 静麗は心の奥深くから溢れる感情を抑え、呟くような小さな声で、目の前に佇む幼馴染であり、夫であった高貴な男性に声を掛けた。


 その小さな声を聞いた、豪奢な衣装に身を包んだ静麗の愛おしい夫は、目をすっと細めると、懐かしいその声で―――静麗に告げた。





「蒋貴人。……余のことは皇帝陛下と呼ぶように」





 静麗は跪いたまま茫然と皇帝陛下を見上げた。

 今、皇帝陛下の口から静麗へと告げられた言葉が信じられない、否、信じたくないと、静麗はぐらつく身体を床に両手をつけて支え、目を見開いて皇帝陛下を見詰めた。



 しかしそんな困惑と懇願が滲む静麗の視線を躱し、皇帝陛下はふっ、と顔を静麗から背ける様に部屋の入口を見る。



天子てんしである余の名を呼べる者は、余の正妻である皇后、薔華チィァンファのみ。……蒋貴人。位の低い側室の其方そなたが、余の名を呼ぶことは許されぬ。わきまえよ」



 冷然と告げられた皇帝陛下の言葉に、耐え続けてきた静麗の心は、その瞬間粉々に砕け散った。


 名ばかりの、忘れ去られた側室として、後宮の片隅で耐える事一年。

 今宵の夜伽を命じられてから、皇帝陛下に言いたい事、聞きたい事が山の様にあったが、全てが無意味だったと知る。


 皇帝陛下の中では、自分は最早、数多くいる側室の一人でしかなかったのだろう。



 静麗は深い海の底に沈んでゆく船の様に、自分の心が何処までも落ちていくのを感じた。

 そうして俯き、皇帝陛下の視線から表情を隠すと、静麗は皇帝陛下の煌びやかな沓を見つめながらゆっくりと頭を床に付け、嘗ての夫に対して叩頭礼をする。





「……はい。……皇帝、陛下……」





 静麗が額づいた顔の下、古い飴色の木床に、雫が一つぽたりと落ち、小さな染みを作った。








 皇帝陛下は静かに足元の静麗を見下ろしていたが、徐にその腕を掴むと、立ち上がらせた。

 そうして俯いたままの静麗の腕を引き、無言で質素な居間を横切ると、奥の寝室へと足を進めた。





 その夜、静麗は一年ぶりに会う皇帝陛下―――夫に寝台に沈められ、伽を果たすことになった。





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