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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第七章

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一. 悲憤

 



 女官長の口から告げられた衝撃的な言葉に、静麗ジンリーは目を見開き、息を飲んだ。




 後宮に閉じ込められてから此れまでの長い月日、皇帝陛下は一度として静麗に会いに月長殿を訪れたことは無い。


 後宮の行事等で遠くに座る皇帝陛下を見ることはあっても、最下位の側室である静麗では、皇帝陛下から呼ばれない限りはその側近くに行くことなど出来なかった。

 皇帝陛下の周りには、常に高位の側室達が幾人も侍っていたからだ。


 そしてこの一年余り、皇帝陛下は後宮の他の側室達の元へは通って子を授けてきたが、静麗の事など忘れたかの様に、否、最初から存在していないかの様に振る舞ってきた。


 大国寧波ニンブォの至尊の存在である天子様として君臨し、美しい妻達との間に子を儲けて、幸せの只中にいる筈のこの時に、何故誰からも忘れ去られた存在である静麗の元へと来ようというのか。





 静麗は一瞬で混乱に陥り、椅子から立ち上がると女官長の元へ詰め寄り、その腕を強く掴んだ。


「どうして、……なんで今更、だって、あの人はっ」


 静麗は激しく動揺し、震える声で女官長に問い質そうとしたが、言葉にならない。



 今更静麗に一体何の用があるというのだ。

 あれ程会いたいと目通りを願っていた時には、一度も許可を出さなかった皇帝陛下が、今更平民時代の元夫人に伽を命じるというのか。


 混乱が少し収まると、静麗の心には怒りの感情が沸き起こった。



 ―――皇后娘娘を初め、高位の側室様達が子育てで忙しいから、暇な私を指名したとでもいうの!? それを私が喜んでお受けするとでも思っているの!?



 嘗て愛しい夫であった浩然ハオランの、その傲慢さを感じる行いに、静麗の心の内では眩暈がする程の感情が荒れ狂った。

 しかし、そんな静麗の心など歯牙にもかけない女官長は、冷静な目で静麗を見詰めると、側で驚きに固まっていた芽衣ヤーイーへと顔を向けた。


ジィァン貴人様は皇帝陛下のお渡りに感極まれているご様子。あなたが蒋貴人様の御準備をしっかりと整えなさい。……分かっていますね」


 厳しい目で命じられた芽衣はびくりと震えた後、静麗の方を心配そうに横目で見て、女官長に頭を深々と下げ拱手礼をした。




 そんな二人のやり取りを、静麗は震えながら凝視した。


 長い月日、見向きもせずに放置していた幼馴染であり、妻であった静麗の元へ、今更通って来ようとする皇帝陛下だけでなく、目の前にいるこの女官長もやはり静麗の事などどうでも良いと思っているのだろう。

 でなければ、この様な酷い事を平然と静麗に言える筈がない。

 それとも、静麗が皇帝陛下のお渡りを歓迎するとでも思っていたのか。

 確かに他の側室達なら、慶びに震えて拝跪して皇帝陛下を迎え入れるだろう。

 だが、静麗は違う。

 一年前の静麗なら喜んで会っていたかもしれないが、今は違う。

 最下位の側室として、後宮の多くの人達に蔑まれた上、愛する夫であった浩然の裏切りを見続けてきたのだ。

 今更皇帝陛下の寵など、浩然の情けなど欲しくない。

 一年の月日をかけて、この場所で夫の事を忘れて一人で生きていく覚悟を決めたのに、何故静麗の平安な生活を乱そうとするのか。

 静麗は悲しさと悔しさに唇を噛みしめた。





 ◇◇◇





 女官長が帰った後、芽衣を居間から下げて一人になった静麗は、椅子に座り、卓布の刺繍をぼんやりと見ていた。

 これは月長殿に来てから、初めて芽衣と共に刺繍をした時に、芽衣が作っていた卓布だ。

 青葉と赤い鳥の刺繍が施された、芽衣の人柄が分かる様な愛らしい刺繍だった。



 ―――可愛いわ……



 静麗はそっとその赤い鳥を撫でた。





 嵐の様な感情が治まった今、静麗の心は不思議な程に静かに凪でいた。



 幼馴染であった浩然と婚姻して、幸せの中にあった期間はほんの僅かであった。

 その後直ぐにイェン雅安ヤーアンを訪れ、静麗は閻の話を信じて浩然と共に皇都を訪れたのだ。

 浩然はその時から自分が皇帝陛下と成ることを知っていたのだろうか。

 それなら、静麗を皇都へ共に連れて来て欲しくなかった。


 平民である静麗が、貴族しかなれないという貴人位を授けられるなど、普通では考えられない僥倖であろう。

 平民として、これ以上に名誉な事など中々無い。

 浩然は長年幼馴染として過ごし、そして婚姻までした元妻に対して温情を示した積りだったのだろうか。

 だがそれは静麗の望みでは無かった。

 静麗は名誉も身分も贅沢な暮らしも欲してなどいなかった。

 ただ愛する人と慎ましくとも幸せに暮らしたかっただけなのだ。




 静麗は目を閉ざして即位の日の皇帝陛下の姿を思い返した。

 眩いばかりに美しく神々しい皇帝陛下と、絶世の美女である皇后娘娘の立ち並ぶ姿を見た時の衝撃は今でもはっきりと覚えている。

 その後の皇帝陛下の後宮での行いも、静麗は様々な感情を抱えながら見詰めてきた。



 皇帝陛下となった元夫の浩然が、今一体何を考えているのか全く分からない。

 後宮から外に出ることが出来ない静麗では、この一年以上の月日を皇帝陛下が皇城でどの様に過ごして来たのか、何を見て、何を考え、何をしてきたのか、知る由も無い。

 幼馴染として、また妻としてあれ程長い月日を側近くで過ごして来たというのに、今の皇帝陛下の事は何一つ分からない。


 しかし、どのような理由があろうと、皇帝陛下のお召しを平民で最下位の側室である静麗が拒むことなど出来よう筈も無い。

 皇帝陛下と直接言葉を交わせる場が、伽でさえなければ、まだ故郷に帰して貰えるように願うことも出来たかも知れないが、朝廷や女官長を通して正式に夜伽の命が下りてしまった今、もうどうしようもない。

 それに、以前後宮から退去させられた側室がいたが、側室を含め、その侍女達もどうなったのか、結局静麗は知ることが無かった。

 もし、静麗が皇帝陛下の不興を買ったら、芽衣や両親がどうなるのか分からない。

 自分の行いは、自分だけでなく周りも巻き込むのだと、静麗はもう一度心に刻みつけた。



 ―――逃げる事が出来ないのなら、今こそ浩然に真意を問質そう



 何故、静麗を皇都へ連れてきたのか。

 何故、側室としたのか。

 何故、今、この時に静麗の元を訪れたのか。



 聞きたいことは山ほどある。

 それに、これが最後の機会となるかも知れない。

 今まで一度も静麗の元へは訪れる事が無かったのだから、この先は二度と訪れないかも知れないのだ。



 決意を固めた静麗は、夕刻前に芽衣がおずおずと部屋に入ってくるまで、皇帝陛下に会って何を言おうかと考え続けた。





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