一. 皇后娘娘
大国寧波の皇后娘娘となった 朱 薔華 は目の前で跪いている二人の側室と数人の侍女達を見下ろしていた。
薔華は本日、天河殿にある皇帝陛下の執務室を訪れた後、ちょうど後宮に戻って来たところであった。
後宮に住む側室達は銀星門から先に出ることは叶わないが、皇帝陛下の御正室である皇后娘娘だけは別格である。
皇帝陛下の許可さえあれば、銀星門から出て、皇城内であれば何処へでも行くことが可能であった。
外国からの使者を迎える場や、国家的な儀式等を行う場合は、ほぼ、外朝三殿の一つである天河殿で行われるのであるから、其れに皇帝陛下の御正妻である皇后娘娘として参席する為には、当然といえば当然の話ではあるのだが。
その日は体調も良く、御殿医からも少し歩いた方が良いと言われた薔華は、皇帝陛下へと菓子の差し入れを持って訪れることにした。
天河殿を訪れた薔華に皇帝陛下は驚き、その身を労わってくれたが、直ぐに後宮に戻されてしまった。
大事な身体だから無理はするなと見送ってくれたが、薔華はもう少し皇帝陛下と一緒に過ごしたいと思っていたので、残念に感じた。
そうして後宮に戻ってみれば、銀星門の前から大きな声が聞こえてくる。
先程まで麗しい皇帝陛下と楽しく過ごして気分が高揚していた薔華は、その大きな声に顔を顰めた。
また貴人位の側室が騒いでいるのかと、薔華は溜息を吐いた。
疫病の影響で、高位貴族の年頃の娘が少なかったとはいえ、貴位の低い側室達は、余り品格が良くない。
低位の貴人同士の諍いも多いと聞き、後宮を管理すべき立場の薔華には頭が痛い問題だった。
唯一の救いは、そんな品位の無い側室達の元へは皇帝陛下がお渡りをしていない事だった。
今迄に皇帝陛下がお渡りをした側室達は、皆が高位貴族の娘達であり、後ろ盾の大きな姫君達だけであった。
だが、其れゆえに低位の貴人達は何とか皇帝陛下の関心を集め、また他の側室達を出し抜こうと躍起になっており、諍いが絶えないのだ。
皇帝陛下の正妻としては、陛下が品格の無い側室達の元へ通われなくて嬉しく思うが、その為に後宮内が荒れるのは困った話だ。
薔華は苛立つ心を静めて、後宮の正門である銀星門の前で、大きな声で侍女に怒鳴っている側室に近づいていった。
◇◇◇
薔華は自分の住む宮に戻って、居室に落ち着くと息を吐いた。
そうして膨らみ始めた胎を撫でながら、筆頭侍女に茶を頼むと、先程見た側室達を思い反していた。
最初に見た時は、唯の侍女だと思った平凡な少女。
側室にしては地味な装いに、飾りも最小限しか着けていない。
しかし、侍女にしては何かおかしい気がして首を傾げていると、薔華の筆頭侍女が耳元で側室であることを教えてくれた。
初めて見る顔に、新しく入った側室かと思った薔華だが、自分を見詰めるその瞳に、何か心がざわざわと落ち着かない気分を味わった。
「ねぇ、先程見た側室の女性。何方の貴族の姫なのかしら?」
薔華は茶を淹れている、自分が一番信頼している実家から連れてきた筆頭侍女へと声を掛けた。
声を掛けられた筆頭侍女は、薔華に向き直ると少し困った顔をした後、首を振った。
「薔華様がお気に止めるほどの者では御座いませんわ。薔華様は今大事な時期です。ご自分の御身体の事を一番にお考え下さいませ」
筆頭侍女の言葉を聞いた薔華は眉を寄せた。
「……貴女、何か隠していますね。正直に私に仰いなさい」
薔華に命じられた筆頭侍女は迷うそぶりを見せたが、薔華にじっと見詰められると観念して喋りだした。
「先程の側室は、皇帝陛下の平民時代の元夫人で御座います」
「なんですって!」
薔華は驚きに椅子から立ち上がり、筆頭侍女の顔を凝視した。
皇帝陛下が元平民であったことは誰もが知っているが、婚姻を結んだ相手が居る事など、誰も薔華に告げる事が無かった。
皇帝陛下自身も、薔華にその事を話すことは無かった為、薔華は自分こそが皇帝陛下の初めての妻であり、正妻だと自負していたのだ。
其れなのに、平民時代に既に婚姻を結んだ相手が居たなど、考えても居なかった。
薔華は皇帝陛下や筆頭侍女に裏切られたように感じ、眉を寄せた。
「あぁ、薔華様。その様なお顔を成されないで下さいませ。大丈夫でございますよ」
「何が、大丈夫なの。…この後宮に、陛下の平民時代の夫人が、側室として入っているなどと、何処が大丈夫だというの!」
感情的になり薔華が筆頭侍女に叫んだ。
薔華は皇帝陛下の後宮に一番初めに入宮した正妻の筈だ。
その後、他の側室達が続々と後宮に入宮し、高位貴族の姫君達の元へと皇帝陛下がお渡りをして、側室達が子を孕んでも、それは皇帝陛下としての責務なのだから仕方がないと割り切っていた。
自分は皇帝陛下の隣に並び立ち、その尊い御名をお呼びすることが出来る唯一の正妻であり、誰よりも早くに皇帝陛下の御子を孕んだという自尊心を持っていたが、皇帝陛下が過去に自らの意志で選んだ女性が居たことに、激しい衝撃を受けた。
そうして、薔華は皇帝陛下が選んだという女性に対して激しい嫉妬の心が沸き起こり、自分が皇帝陛下の事を深く愛している事を自覚してしまう。
筆頭侍女はそんな薔華を優しく椅子に座らせると、その前に跪きにこやかな笑顔を浮かべた。
「薔華様。その元夫人の側室は、蒋 静麗という名で、平民でありながら貴人位を温情で授かっておりますが、何も気にすることは御座いません」
「蒋 静麗……というの……」
薔華は美しい顔に嫉妬の色を乗せて筆頭侍女を見つめた。
「はい。ですが薔華様、ご安心くださいませ。皇帝陛下はその側室の元へはお渡りどころか、一度も会いにも行っておりません」
「えっ? 平民時代の夫人を態々貴人位にしてまで後宮に入れたのに、何故……」
筆頭侍女はにこやかな顔のままで薔華の手を握った。
「陛下が後宮で一番多くお渡りをされたのは薔華様で御座います。そして、陛下が一番に子を授けて下さったのも薔華様。子を懐妊した後も、薔華様の事をご心配して、頻繁に訪れて下さっておられます。他の側室達には、陛下はそこまでの気遣いをなされておりません。……そして、あの最下位の平民の側室には、この半年以上、一度も陛下はお会いしてもおりません。きっと陛下は、この大国の天子様として即位なされ、美しく身分高い薔華様をお気に召し、田舎臭い平民娘の事などお忘れになられたのですわ」
そう言うと、慈愛に満ちた顔で薔華の手を優しく撫で擦った。
「私達薔華様にお仕えする者は、態々その様な、忘れ去られた側室の話を、陛下の御子を身籠られている大切な薔華様に御聞かせするべきではないと考え、今この大事な時期の薔華様に、余計な不安を与えたくも無かったので、ご報告する必要は無いと判断致しました」
薔華は筆頭侍女の話を聞いて、知らずに安堵の息を吐いた。
皇帝陛下は、元夫人の所へは一度も通っておらず、一番大切にされてきたのは自分だと知らされ、落ち着きを取り戻した。
「貴女達が私の事を想ってくれたのは嬉しいわ。ですが、私はこの後宮の主です。後宮内の事はどんな些細な事でも報告して頂戴」
「はい。薔華様。申し訳御座いませんでした」
筆頭侍女は頭を下げながらもどこか誇らしげな顔をした。
薔華はそんな信頼する筆頭侍女の顔を見て、仕方のない人というように笑うと、膨らみ始めた胎を優しく撫でた。
そして筆頭侍女にも聞こえない程の小さな声で呟いた。
「私が陛下の御子を、……皇太子となる男児をお生みすれば、陛下はもっと私の事を慈しんで下さるかしら……」
頬を染め、初々しく笑う薔華は、全てに満たされ美しく輝いていた。
そうしてその半年後、皇帝陛下の唯一の御正妻であり、皇后娘娘である 朱 薔華は、自身の望み通りに皇帝陛下の第一子となる男児を、皇太子となるべき皇子殿下を無事に出産することとなる。
【ご連絡】此れまで連続更新してきましたが、少しきつくなってきましたので、更新頻度を少し下げようと考えています。時間は掛かっても完結までは書き上げるつもりですので、よろしくお願い致します。




