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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第六章

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十一. 転機

 


 月長殿を訪れたリィ 一諾イーヌオは突然静麗ジンリーの前に片跪くと、真摯な瞳で静麗を見詰めてきた。


「静麗様。私は、貴女の御用商人ではありますが、半年以上の月日を過ごして来た友人でもあると思っております。どうか、私の前では我慢なさらないで下さい。私は貴女の友の一人として、貴女の事を支えて差し上げたい。私に出来る事があるのなら、何でも仰ってください。私が静麗様の望みを叶えて差し上げます」

「一諾さん……何を、……」



 静麗は、こくりと唾を飲み込んだ。


 友人として、静麗を支えてくれると言う一諾の言葉は、人との触れ合いに飢え、皇帝陛下やその妻達ばかりでは無く、皇帝陛下の御子達を見て苦しさや悲しみを覚えていた静麗の心をざわめかせた。

 寂しさに負け、思わずその手を取りたくなる想いを押し殺して、静麗は気丈に微笑んだ。


「ありがとうございます。一諾さん。……とても心強いです。もし何かあったら、相談させて下さい」


 例え平民の上に、お渡りの無い名ばかりであろうとも、静麗は皇帝陛下の側室だ。

 御用商人とはいえ、特定の男性と友人として付き合っていることも拙いのに、これ以上の甘えは許されないだろう。


 一諾は静麗が一歩引いた事を感じとると、暫くそんな静麗を見つめた後、静かに手にしていた静麗の領巾を手放して頷いた。


「分かりました。ですが、私は静麗様の御用商人です。此れからも、今まで通りどうか御贔屓に願います」


 そう言うと、その場で頭を下げて拝跪した。

 足元に跪く大きな体躯の一諾を、静麗は安堵と寂しさが混じり合った複雑な感情で見下ろした。





 ◇◇◇





 一諾が月長殿から辞して暫くして芽衣ヤーイーが帰ってきた。


「静麗様、只今戻りました。何もお変わりはございませんでしたか?」

「お帰りなさい、芽衣。早かったのね。こっちは何も無かったわ。いつも通りよ」


 居間で芽衣を出迎えた静麗は微笑んで答えた。


 芽衣に一諾の事を話そうかと迷ったが、静麗が一諾と親しく付き合っている事を心配していた芽衣に、先程の事を言うのは躊躇われ、結局黙っている事にした。

 それに、静麗の現状を憐れんだ一諾がとっさに言った感情的な言葉を、態々芽衣に報告するのは、一諾の優しい想いを踏みにじる行為の様に感じたのだ。

 親切から手を差し伸べた一諾を静麗は拒んだのだから、此れからはきっと今までの様な友人としての関係は続けられないだろう。

 御用商人と皇帝陛下の側室として、節度ある距離を取らなくてはいけない。

 だが静麗は、後宮で唯一人の大切な平民の友人を無くすことに、深い悲しみを抱いた。



 ―――故郷では当たり前に出来ていた事も、此処では立場や柵が邪魔をして出来ない。一見華やかで素晴らしい所に見えるのに、本当に後宮ここはなんて不自由な場所なのかしら





 ◇◇◇





 静麗が皇都へ着き、後宮へ入ってから一年以上の月日が流れたその日、昼餉の後に居間で暇を持て余した静麗は芽衣と共に刺繍を施していた。



 ここ数日は春燕チュンイェン公主殿下も女武官であるグゥォ 伝雲ユンユンも、そして一諾も月長殿を訪れていない。

 その為、後宮の最奥にある寂れた月長殿はいつも以上にひっそりと静かな空気が満ちている様な気がした。


 静麗は、月長殿に入った当初から居間に置かれていた、古びてはいるが品の良い長椅子に座り、窓から入る心地よい風に目を細めて月長殿の裏庭を眺めた。

 爽やかな風が、静麗の一つに括った長く美しい黒髪を優しく揺らす。

 皇都も随分と暖かくなり、裏庭にも緑が増えてきた気がする。



 ―――そうだわ。今年は庭にも何か花を植えようかしら。他の殿舎の様に華やかにすることは出来ないけれど、私が世話を出来る小さな花壇を作るのも悪くないわ。何時までもこんな寂しいままでは、庭がかわいそうだものね



 後宮に入った当初は荒れていた庭も、今では随分綺麗にはなっているが、まだどこか寂しい気がする。

 そんな事を考えながら、静麗は良く晴れた空を見上げた。



 静麗は皇都で迎えたこの冬に、初めて雪を見ることになった。

 話には聞いていたが、空から白く小さなふわふわとした物が落ちてくる不思議に、静麗は庭に佇み空を見上げ続けた。

 芽衣が心配して何度も月長殿の中に戻る様に促して来たが、目を離すのが勿体なくて中々庭から動くことが出来なかった。



 ―――寒かったけど、本当に美しかったわ。それに、とても儚い。近くで見てみたかったのに、手が触れたらまるで幻のように儚く融けてしまった



 静麗が刺繍をしていた手を止めて、一人で見るには寂しいと感じた雪の事を思い返していると、円卓を挟んだ前に座っていた芽衣が顔を上げた。


「あら? 誰か来たみたい。静麗様、私少し見てきますわ」


 その声にはっとして、立ち上がった芽衣を見上げた。


「…ええ。お願い芽衣」


 芽衣が居間から出ていく後ろ姿を見ながら、静麗は春燕からの先触れの使者か、それとも伝雲かと期待をした。

 伝雲は何度か警護中の姿を遠くに見たが、春燕は半月程顔を見ておらず、少し寂しいと感じていた。

 芽衣が戻ってくるのを、椅子に座ったままそわそわとした想いで待っていた静麗だが、現れた人物に驚き、目を見張った。



 芽衣の先導でその後ろから現れたのは、久しぶりに見る女官長の姿だった。

 女官長は静麗の姿を見ると、ほんの少し眉を動かした。

 地味な衣装に身を包み、装飾品は何も着けず、髪を結上げても居ない静麗の姿は、とても大国の皇帝陛下の側室には見えなかった。


ジィァン貴人様。突然の訪問申し訳ございません。入っても宜しいでしょうか」


 久しぶりに見る女官長の姿に驚いた静麗だが、直ぐに女官長を居間に招き入れた。

 女官長は泰然とした足取りで居間に入ると、跪き静麗に対して恭しく礼を行った。

 それを静麗は複雑な気持ちで見下ろしていたが、直ぐに立って椅子に座る様に勧めたが、それは女官長に断られてしまった。



 静麗は月長殿で女官長と対峙していると、後宮に入った日の事を嫌でも思い出してしまう。

 あの時、この女性は一体どんな気持ちで静麗と向き合っていたのか。

 今から騙すことになる十五歳の静麗を前に、何を考えていたのか。


 当時は女官長がどういった役職かも良く分かっていなかったが、今ではこの女性が後宮でどれ程の影響力を持っているかも知っている。

 きっと何も知らない田舎の小娘を丸め込むことなど簡単だったことだろう。


 静麗が後宮に入ってから此れまでの事に思いを馳せていると、女官長は何時もと変わらぬ鋭い眼差しで、心の奥底まで見通す様に静麗を真っ直ぐに見詰めてきた。


 そして徐に口を開くと、抑揚の無い低い声で蒋貴人様、と静麗に呼びかけた。

 そして―――厳かに、その言葉を静麗へと告げた。








「…今宵、月長殿に皇帝陛下のお渡りが御座います。その御積りで夕刻までにはお迎えできるご準備を」








 静麗はその刹那、―――全ての刻が止まり、そして、新たに何かが動き出し、その大きなうねりに自分が否応なく巻込まれる事を感じ、茫然と女官長を見下ろしたのだった―――







第六章 終


次回 挿話

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