六. 呈上
後宮の正門である銀星門の前で、皇后娘娘に見咎められ、皇帝陛下への直訴を諦めた静麗。
一度目は見逃されたが、これ以上の不敬は許されることは無いだろう。
後ろ盾も何も無い平民の側室である静麗には、後宮から出て故郷の雅安へと帰る手段は潰え、もう何も残っていなかった。
静麗の愁嘆は深かったが、数日を月長殿で閉じこもって過ごしたのち、緩やかに平常へと戻って行った。
その日、静麗は一人で月長殿の裏庭にある池の前に佇んでいた。
そしていつも座る椅子では無く、池の畔にある大きな石の上に腰を下ろすと、池の水に手を浸した。
「冷たい……」
季節は静麗の気持ちを置き去りに、静かに進んでいた。
静麗は手を冷たい水に浸したまま、水面に出来た波紋を見つめた。
―――もともと皇帝陛下への直訴が簡単に出来るとは考えていなかった。側室と言っても、平民の私では皇帝陛下の近くに行くことすら難しい。それでも、何もせずに終わるのは嫌だった。……でも、もう後宮からは出る方法は……何も残っていないわ……
静麗は静かに目を閉じると、故郷の両親や祖父母、懐かしい友人達の顔を思い描いた。
今はまだ鮮明に思い出せる故郷の人々の顔。
だが、何時までそれを覚えていられるのか。
何年も後宮で過ごすうちに、両親の顔さえも朧げにしか思い出せなくなってしまうのではないか……
―――御父さん、御母さん。それに故郷の愛しい人達。……どうか、…どうかお元気で。私は何時までも貴方達の幸せを、後宮から祈っております―――……
静麗は大切な人達をその胸の奥深くに刻み込み、遠く離れた故郷の地に住む人達に、永遠の別れを心の中で告げたのだった―――
◇◇◇
「静麗様。先程皇宮より連絡が参りましたわ」
居間で寛いでいた静麗の元へ、芽衣がやって来てそう告げた。
「皇宮からなんて、珍しいわね。何かあったの?」
「はい。今月の十日に、皇帝陛下の御生誕日の祝いの宴が天河殿で行われるそうです。その後、夕刻より後宮の皇后娘娘の宮でも祝宴が執り行われるようです。後宮に住む全ての側室様方のご出席を皇宮は希望されているようですわ」
静麗はそう、と頷いた。
もうそんな季節となっていたのかと、目を細め遠くを見る眼差しとなった静麗。
雅安にいた頃は、毎年贈り物を用意して羅家を訪ねていた。
毎年自分の誕生日よりもわくわくとした思いで贈り物を選び、喜びに顔を綻ばせる浩然を見るのを楽しみにしていたのだ。
だが、今年は……
「芽衣。私は体調不良を理由に参加はお断りして頂戴」
「静麗様、……でも、それは……」
「芽衣。お願い。今回だけは出たくないの。……皇帝陛下の顔も、まだ冷静に見られる自信が無いの。もう暫く時間を頂戴。次の行事にはちゃんと出るから」
芽衣は少し逡巡する様子を見せたが、頷いた。
「分かりましたわ。では、そういたします。……ですが、贈り物は如何されますか?」
「贈り物?」
「はい。御側室様方は、皆様陛下への贈り物を携えて宴へご出席なされます。参加されないのであれば、せめて贈り物はご用意されたほうが良いかと思いますが」
静麗は首を傾げて芽衣を見た。
皇帝陛下はこの国で一番尊い存在で、何でも手にすることが出来る立場に居るのに、今更平民の静麗からの贈り物など必要なのかと思った。
「それも側室としての義務なの?」
「いいえ。義務ではございませんが、皆様ご用意なさいますので……」
「だったら、私は用意しないわ。他の側室様達と違って、私は陛下の寵など今更求めていないもの」
静麗はそれで話は終わりだと言うように椅子から立ち上がると、居間から出ていった。
◇◇◇
皇帝陛下の御生誕日の当日。
晴天に恵まれた中、天河殿では大規模な催しが執り行われていた。
だが、そんな賑やかな様子も後宮の最奥にある月長殿には届くことも無く、何時もと変わらぬ穏やかな空気が流れていた。
静麗は昼餉を芽衣と共に食した後、一人寝室に戻り、小さな円卓の前の椅子に腰掛けていた。
円卓の上には、箪笥の奥深くに押し込めていた、静麗の宝物が置かれていた。
それをじっと目に焼きつけるように見つめた後、静麗は立ち上がり、小物入れの中から一枚の手巾を取り出した。
時間だけは嫌になるほどある静麗は、暇を見つけては少しずつ色々な物に刺繍を施していた。
この手巾もそうした中の一つだ。
白い何の変哲も無い手巾に、静麗の大好きな浅黄水仙を刺繍したものだ。
その白い手巾で円卓の上に置いていた宝物を丁寧に包むと、それを持ち居間へと戻った。
「芽衣。お願いがあるの」
「はい、何でしょうか静麗様」
居間へと戻った静麗は、そこで手に持っていた物を芽衣の前に差し出した。
「これを、陛下への贈り物として、届けて欲しいの」
静麗の言葉に、芽衣は驚いた。
宴への出席も、贈り物を用意することも拒否していた静麗が、なぜ当日になって気が変わったのかと。
「静麗様? 其方の贈り物は何時ご用意されていたのですか?」
芽衣の問いかけに静麗は小さく口角を上げると首を振った。
「これは、……違うの。……私にはもう必要ないから、陛下にお渡しするの」
静麗の手元を見た芽衣ははっとした。
「静麗様。それは、もしや」
芽衣の、もの問いたげな様子には何も答えずに、静麗は芽衣の手に手巾に包まれた物を手渡した。
「お願いね。芽衣」
「静麗様。……本当に宜しいのですか? これは大切な物だったのでは?」
「……私は、自分では処分することも出来ないもの。でも、きっと陛下なら直ぐに処分して下さるわ」
そう言うと、静麗は儚く笑った。
「私は後宮で生きていく、側室の蒋貴人よ。―――それは、この先の私には必要のない物なの」
静麗の瞳をじっと見つめた芽衣は、静かに頷いた。
「分かりましたわ。静麗様の御心のままに」
静麗は、雅安で生まれ育った唯の平民であった自分と別れ、後宮で唯一の平民の側室として生きていくことの覚悟を新たにした。




