五. 凶報
一刻近い時が経過し、落ち着きなく夫婦の部屋で待っていた静麗は、使用人からお客人が帰る事を聞き、屋敷の門戸まで急いで出向いた。
呼びに来てくれた使用人の他にも数人が浩然の後ろに並び立ち、お客人の見送りに出ている。
浩然と閻はすでに表に出ており、門の前には立派な馬車が止まっていた。
田舎町の雅安では馬は貴重で、馬車を個人で所有出来る者など、身分の高い貴族か、平民でも裕福な家の者しか居ない。
羅家でも嘗ては馬を所有し、馬車も使用していたが、祖父母が商売から手を引いた後は必要が無くなり手放していた。
静麗が二人のいる場所まで足早に向かった時には、閻は既に馬車に乗り込んでいた。
馬車の中、備え付けの小さな椅子に腰かけた閻と、静麗の視線が一瞬交差する。
―――え?
静麗はその視線が交わった一瞬、閻の瞳に得体の知れないものを感じた。
―――皇都の官吏様って、皆あんな鋭い目つきをされているのかしら。それとも、浩然との話し合いで何かあったのかしら。さっきは皇都の話を楽しく聞かせて下さっていたのに……
静麗は御者によって閉じられた馬車の扉を見ながら、訝しく思った。
御者台へと上った御者はすぐに馬に鞭を入れ、馬車をゆったりと動かした。
大通りの方へと向かい、走り出した閻を載せた立派な馬車は、直ぐに遠退き見えなくなった。
ふぅ、と息を吐いた静麗は、前に立つ浩然に声を掛ける。
「浩然、お疲れ様。随分長い間部屋に居たけど、閻様のお話って何だったの」
声を掛けても浩然は振り返らず、馬車の消えた方をずっと見ていた。
「浩然?どうかした?」
聞こえなかったのかと思い、静麗は浩然の横に立ち、その顔を覗き込み、驚いた。
「どうしたの?顔色が悪いわ」
浩然は無表情で前を見据えていたが、静麗の呼びかける声に、隣にある小さな顔を見下ろした。
「静麗……」
浩然は両腕で静麗を引き寄せると、強く抱き締めてきた。
静麗は浩然の様子に、何か良くない事があったのかと不安になる。
「浩然、どうしたの?閻様のお話し、良くない事だったの」
「いや、大丈夫。大丈夫だ。何も心配いらないよ。……御爺様達が戻ったら、その時に話すから」
浩然の言葉に安堵よりも不安を覚え、静麗は夫の顔を見上げる。
浩然はぎこちない笑顔を浮かべると、静麗の手を引き屋敷へと戻る。
―――一閻様と何の話をしたの?何か良くない事があったの?
不安を覚えながらも、浩然に手を引かれるままに歩き、その横顔を窺いながら屋敷へと戻った。
◇◇◇
羅家に急な来客があった日の夜遅く、遠方まで出掛けていた祖父母達が帰ってきた。
既に夕餉も終えていた静麗達は、祖父母が待つ居間に行くと、長椅子に浩然と並んで座った。
使用人が四人分の茶を用意し、出て行くまで誰も話すことなく黙っていた。
使用人は異様な雰囲気を感じながらも何も言わず、茶を用意すると直ぐに退出した。
使用人が居間を出て、少し間を置き祖父が口を開いた。
「浩然、皇都より官吏が来たと聞いたが、一体何の話だったのだ」
「朝廷からの御使者様だなんて、まさか今更あの子のことで、何か言ってきたの?」
祖父母は眉を顰め、不快感を露わにした。
浩然は真剣な表情でそれに頷きを返す。
「はい。母のことにも関係がありますが、今回は俺についての話でした」
「浩然について?それこそ、今更何の用があるのだ。お前が生まれてから、一度も音沙汰がなかった朝廷が、何を言ってきたのだ」
祖父は口調を荒げ、吐き捨てる様に言った。
祖母も同意するように頷く。
静麗は三人の様子を不安な気持ちで眺めた。
浩然は目を閉じ、大きく息を吐くと、祖父の顔を真剣な表情で見つめた。
「皇都で疫病が蔓延したというお話は聞いていますか?」
浩然の急な問いかけに、何故今そんな話をと、祖父母は不審な顔をする。
静麗も皇都で疫病が流行って、多くの人が亡くなったという話を数日前に聞いたばかりだ。
皇都と静麗達が住むこの地はとても離れており、情報が回ってくるのもかなり遅い。
その為、今、皇都がどのような状況なのかも、平民である静麗達には良く分からなかった。
領主一族には、きっと詳細な報告が上がっているのだろうが。
静麗は何人もの人が亡くなったと聞き、酷い話だと感じながらも、遥か遠くの皇都という場所での出来事は、まるで昔話のように現実味が無かった。
「ああ。その話は聞いたが、それと今日の客人の話と、どんな関係が?」
浩然は俯き、口をぎゅっと引き結ぶ。
そして、徐に顔を上げると、祖父を真っ直ぐに見詰めて告げた。
「皇都で、一番被害が出た場所は、………皇族の住む、皇宮や、後宮だったそうです……そして…………皇帝陛下、皇太子殿下を始め、多くの皇家の方々がお亡くなりになったそうです……」
「なんとっ!……それは、真かっ」
驚愕し、祖父は椅子から立ち上がり、大声で叫んだ。
祖母も驚きに目を見開き、手で口元を覆った。
静麗は浩然の口から出た、凶事に息を飲んだ。
―――皇帝陛下と皇太子殿下が、同時にお亡くなりになるなんて、そんな、どうして……
居間には重苦しい空気が流れた。
二千年という長い歴史を持つ寧波の皇家だが、皇帝陛下と後を継ぐべき皇太子殿下が同時に亡くなることなど、嘗てなかった事だ。
朝廷の混乱が想像出来、祖父はごくりと唾を飲み込む。
落ち着くために茶を手に取り、一息に飲み干した。
暫し、誰も口を開くことが出来なかったが、やがて、祖父は大きく息を吐くと力無く言った。
「皇族の多くの方々が亡くなられたのは理解した。しかし、それと浩然に何の関係がある?確かにお前には…………皇族の血が流れているが、……平民として生まれ、育ち、これからも平民として生きてゆくのだ。皇都のことなどは、それこそ、官吏達が何とかすれば良い。我々には関わりの無い話だ」
静麗は、祖父の己に言い聞かせる様な言葉を聞き、あぁ、と溜息を吐いた。
浩然が、皇族の血を引いているという事実は、この雅安でもごく一部の者しか知らない事だった。
幼馴染の静麗も、浩然に父親が居ない事は知っていたが、誰が父親なのかは知らなかったし、浩然が言わない以上、知る必要も無いと思っていた。
父親のいない子として生を受けた浩然だが、母や祖父母に愛され、慈しんで育てられた。
また、田舎町の人の良い隣人達も、浩然を可愛がった。
幼い頃から一緒にいた静麗も、浩然の父親が居ないことなど気にしたことも無かった。
それが、浩然からの婚姻の申し入れを受けた時に、初めて出生の秘密を明かされ、天地が逆さになるかと思う程驚いた。
羅家の一人娘であった、浩然の母に子を授けたのは……
浩然の父親とは―――
この寧波の国を統べる皇族、その中でも至高の存在、天子である皇帝陛下その人であったのだ―――