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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第六章

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五. 諦念

 


 静麗ジンリーが側室である イェ 彩雅ツァィヤーから皇帝陛下のお渡りをお受けしたと告げられてから半月後のある日、静麗は芽衣ヤーイーと共に二人で銀星門の近くまで出向いていた。



 皇帝陛下に直訴する為では無く、女官長に用事があり、銀星門に近い場所にある女官長の部屋を訪れる為に月長殿から出て来ていたのだ。

 その用事とは、静麗の貴人としての禄を受け取ることであった。



 先月までは朝廷の高級官吏が月長殿まで赴いて禄を奉じていたのだが、その余りの態度の悪さに静麗はともかく、芽衣が我慢が出来ずに女官長へと訴えたのだ。

 それを聞いた女官長は眉を寄せて少し考えると、此れからは女官長が静麗の禄を朝廷から受け取り、それを静麗に渡すという事になった。

 本来なら女官長が月長殿を訪れて禄を奉じるべきなのだが、忙しい女官長の手を平民の静麗の為に煩わせるのは申し訳ないと考え、芽衣が女官長の元まで取りに向かう事にしたのだ。


 本日も、初めは女官長の元へは芽衣一人が向かう筈であったが、此れから迷惑を掛けることになるので、初回の今日ぐらいは静麗も芽衣と共に出向くことにした。

 そうして久しぶりに後宮の最奥に有る月長殿から遠出をしてきた静麗達は、無事に女官長から禄を受け取ることが出来た。



「女官長様、御手を煩わせて申し訳ありませんでした。此れからもよろしくお願い致します」


 頭を下げる静麗と芽衣に女官長は眉を寄せて溜息を吐いた。


ジィァン貴人様。貴女は皇帝陛下の御側室です。そのように軽々しく頭を下げられては困りますわ。……それに、後宮内の事は私の職分です。朝廷の官吏達が後宮の側室に対して不敬を働くのを見過ごすことは女官長として出来ません」


 女官長の言葉に静麗は驚いたように顔を上げた。


「女官長様……」


 静麗は女官長の事を未だに許してはいないし、きっと女官長も平民の側室である静麗のことが気に入らないのは変わりは無い筈だ。

 しかし、この女性は女官長という立場に誇りを持っており、後宮内で起こる事は自分の職分だと割り切っているのだ。

 その為、内心はどうであれ、後宮内では側室という立場を賜っている静麗のことにも気を配ってくれたのだろう。

 だが、一方では静麗の禄が少ないままなことや、届かない手紙の事等、手を差し伸べずにいる事も多くある。

 皇帝陛下や朝廷の官吏だけでなく、この女官長も何を考えているのか静麗には分からなかった。



 ―――本当に、皇城にいる人達の考えは私には理解出来ないわ



 静麗は複雑な思いを抱いて女官長の部屋を後にした。





 ◇◇◇





 受け取った禄が入った箱を芽衣が抱えて、用事が済んだ静麗達は月長殿に戻ろうと回廊を進んでいた。


 その時、銀星門の辺りに人だかりが出来ているのに気付いた。

 静麗が目を凝らして見てみると、皇帝陛下が今まさに銀星門から外に出ようとしている姿が目に映った。





 ―――浩然ハオランっ!!!





 皇帝陛下の姿を目にした静麗は、此処が何処かも忘れ、周りに誰が居るのかも考えずに、銀星門に向かって走り出した。


 後ろで禄を抱えた芽衣が驚き、慌てた様に静麗を呼ぶ声が微かに聞こえたが、静麗は足を止める事が出来なかった。

 静麗の身に着けている衣装の、長い裾や領巾が足に絡みつき、よろけながらも静麗は必死に前へと進み、皇帝陛下の後ろ姿を追った。




 ―――待って、浩然! お願い、話を聞いて!! 私を後宮ここから出してっ!!!




 静麗が銀星門に駆け寄ったときには既に皇帝陛下は門を通過して、皇宮へと向かって遠ざかっていた。



 静麗はその遠ざかる背に向かって手を伸ばし、悲痛な声で叫んだ。



「浩っ……!!」

「無礼者! 下がれ!!」



 静麗が皇帝陛下を呼ぶ声に重なる様に、野太い声が辺りに響いた。

 びくりと大きく震え、はっとして其方を見ると、いつの間にか武官達が静麗を取り囲んでいた。

 それでも静麗はその武官達を押しのけて、皇帝陛下の後を追おうとした。


 その時、静麗の前の武官達がすっと脇に下がり、気付くと目の前には皇后娘娘の姿があった。



「ぁ……」



 静麗は必死になる余り、皇帝陛下の姿しか目に映っていなかったが、皇宮に戻る皇帝陛下をお見送りする為に、皇后娘娘一行もその場には居たのだった。


 皇后娘娘の存在に気付いた静麗だが、それでも諦めきれずに皇帝陛下の背を探す様に銀星門の向こうを見ようとしたが、その視線の先を皇后娘娘が遮った。


「貴女は確か、ジィァン貴人でしたわね」


 美しい顔を少し歪めて静麗を見つめる皇后娘娘のその視線に、静麗ははっとして、震えてその場で跪いた。




 皇帝陛下の姿が見えなくなり、冷静になると、自分の取った行動が恐ろしく不敬であることに気付いた。

 静麗は皇后娘娘の顔が見られずにその場で額ずき叩頭することしか出来ない。



 皇后娘娘は暫くそんな足元で跪き震える小さな少女を見ていたが、やがてその形の良い花弁の様な口を開いた。


「蒋貴人。貴女は貴人の位を賜った側室ではありますが、自分が平民であることを忘れてはいけません。そして貴女はもう陛下の、……浩然様の夫人ではないのです。わたくしが浩然様の正妻であり、皇后なのです」


 厳しい口調でそこまで言うと、皇后娘娘は跪き地面に額をつけて震える静麗に対し、面を上げなさいと命じた。

 静麗は小さく震えたままぎこちない動きで面を上げ、目の前に立つ、高貴で美しい皇后娘娘の顔を見上げた。




 皇后娘娘の視線と静麗の視線が間近で交わり、二人は互いの瞳を真正面から見つめあった。




「……わたくしは浩然様よりこの後宮を任されております。後宮の主としてそれを乱す者を見過ごすことは出来ません。蒋貴人。貴女が、…いいえ。後宮に住む全ての側室達が陛下の御名をお呼びすることも、また銀星門から出ることも決して許しません。後宮から出て、浩然様のお側に行くことが出来る、その権利を有する者は、浩然様の正妻であり、皇后であるわたくしだけなのです。分かったならお下がりなさい。そして、己の分を弁え、後宮の和を乱す行動は慎みなさい」



 皇后娘娘は後宮の主として、また皇帝陛下の正妻として、毅然とした態度でそう言い置くと、跪いた静麗をその場に残して自分の宮へと帰って行った。

 皇后娘娘に付き従う侍女や女官、其れに武官達は不快そうに静麗に一瞥を与えると、何も言わずに皇后娘娘の後を追って立ち去って行った。



 皇后娘娘が注意を与えるだけで立ち去ったのは、皇帝陛下や皇后娘娘を前にして平民の静麗が取った不敬な行動を、温情を持って不問にするという皇后娘娘の意思表示だったのだが、静麗にはそれすらも気付けなかった。



 遠退いていく煌びやかな一団。

 その後ろ姿を静麗は虚ろな瞳で見送り、それらが見えなくなると、緩慢な動作で背後の銀星門を振り返った。



 静麗では決して越えることは出来ないと言われた荘厳で美しい後宮の正門を。





「静麗様……」


 気付けばすぐ隣に芽衣が静麗と同じように地面に両膝をついて此方を見ていた。


「……芽衣……もう、私は……此処へは………銀星門には来ないわ……」

「静麗様、……それは、……」

「ええ。……もう、……いいの……」





 静麗は静かに目を伏せ、皇帝陛下への直訴という最後で唯一の希望を手放した。




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