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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第六章

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三. 夢幻

 


 後宮の正門である銀星門の前で、初めて間近で皇后娘娘と遭遇した静麗ジンリーはその膨らみ始めた胎を見て衝撃を受けた。


 懐妊した女性を見たことが無い訳では無い。

 故郷の雅安ヤーアンでは何度も見かけていたし、友人の生んだ嬰児を抱かせてもらったこともある。

 元々子供好きの静麗は、嬰児の余りの可愛さに夢中になり、母となった友人が呆れて取り戻すまで、何時までも抱いて離さなかった。

 その時は自分も何時かは浩然ハオランの子をこの手に抱くのだろうかと、近い未来に想いを馳せて温かい気持ちが胸に広がっていた。


 だが現実は、浩然は静麗では無く、他の多くの女性達を娶り、その妻達との間に子を儲けた。

 静麗が嬰児をこの腕に抱くことは、もう決してないのだろう。




 皇帝陛下に会って直訴することも叶わず、皇后娘娘に促されて月長殿に戻って来た静麗は、少し一人になりたいと芽衣ヤーイーに言うと裏庭に降り立った。

 そして虚脱したように池の畔の椅子に腰かけると、風に揺れる水面の小さな波紋を眺めた。


 季節はいつの間にか移ろい、月長殿の寂しい裏庭にも少しはあった花々はいつしか無くなり、物悲しい秋の虫の音だけが響いている。

 その郷愁を誘う虫の音を聞きながら、静麗は以前この腕に抱いた嬰児の命の重さを思い出し、ただ椅子に座り小さな池を眺め続けた。





 ◇◇◇





 数日後、もう一度皇帝陛下に直訴する為に銀星門まで出かけるべきか、それとも止めるべきかと静麗は悩んでいた。

 銀星門の直ぐ側には皇后娘娘の住まう 蝶貝宮 桃簾殿がある。

 最下位の側室である自分が、用も無いのに皇后娘娘の宮の周りを出歩いていては、武官達に咎められるかもしれない。


 否、本音は、皇后娘娘の姿を見たくないだけだと、自分でも気付いている。



 静麗が迷い、橄欖宮の門前を一人うろうろと歩いていると、遠くに イェ 彩雅ツァィヤーの姿が見えた。

 相変わらず護衛の武官達を撒いて出歩いていた様で、供も付けずに一人で散策しているようだ。


 彩雅は静麗に気付くと、少し首を傾げた後、月長殿に向かって歩きだした。

 今はあまり、人と話をする気分では無かった静麗は、このまま月長殿に入ってしまおうかと考えたが、その前に彩雅は橄欖宮の門前に辿り着いてしまった。



「お久しぶりね。ジィァン貴人。お元気かしら?」


 随分機嫌が良さそうな彩雅に、静麗は小さく頭を下げて挨拶を交わした。

 彩雅は以前と同様に、華やかな衣装に身を包み、髪は大きく結い上げて、重いのではないかと静麗が心配するほどの飾りを着けていた。


「はい。お久しぶりです、葉貴人様。またお一人でお出かけですか?」


 彩雅とは久しぶりの対面となる。

 以前、静麗の刺繍を気に入って一度月長殿を訪れた後は、偶に後宮内で見かけるだけであった。

 その時も特に話をすることはなく、目があえば遠くから黙礼を交わす程度であった。

 其れなのに、今日は態々彩雅から静麗の方へと近づいてきた。

 何か静麗に用事でもあるのか、それともまた刺繍を見たいのか、静麗は憂鬱な気持ちのままで彩雅に向き直った。


「ええ、そうよ。侍女達も武官も煩いのですもの。一人の方が気楽よ」


 相変わらずの型破りな言動に、静麗は小さく苦笑を浮かべた。

 彩雅の自由気儘な様を見ていると、少し羨ましく感じる。

 自分にも彩雅の様な強さがあれば、もっと上手くこの場所で立ち回ることが出来たのだろうか。


「あぁ、そうだわ」


 先日、間近で見た美しい皇后娘娘の姿を思い返しながら、詮無い事を考えていた静麗は、彩雅の声に我に返った様に、ぴくりと身じろぎした。


「貴女が御用商人のリィを紹介してくれて助かったわ。流石に後宮に入る手形を賜るだけの商家ね。品揃えが素晴らしかったわ」


 満足そうに微笑む彩雅に、一諾イーヌオを紹介した静麗も安堵した。

 一諾は静麗からの紹介を受けると直ぐに彩雅の住む殿舎へと向かったようだ。

 そこで、彩雅にも気に入られ、葉貴人の御用商人となることに成功したのだ。

 後宮内で商売を許された商家の一員である一諾は、若くとも、やはりやり手の商人でもあるのだろう。

 静麗に対しては、唯々、大らかで優しい友人の様な、兄の様な人物であるのだが。

 そんな一諾は、彩雅と会った次の日にはその報告と、お礼にと手土産を持って静麗の元を訪れた。

 一諾から、葉貴人と上手く話が纏まったと聞き、少しでも一諾に恩返しが出来たことに静麗は安堵し喜んだ。



「それは良かったです。元々は リィァン 春燕チュンイェン公主殿下からご紹介頂いた方ですから、身元も確かですし」

「あら、貴女公主殿下と親交があったの?」


 彩雅は少し驚いたように目を見開いたが、直ぐに何時もの様にどうでも良さそうな顔をした。

 用が無いのなら、挨拶をして月長殿に戻ろうかと口を開きかけた時、彩雅は何かを思い出したように、急にふふっと楽しそうに笑った。


 何時もは自尊心の高い、如何にも貴族の姫君といった態度の彩雅が、嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべている。

 そして、ちらりと静麗を見ると含み笑いをしながら首を傾げた。

 静麗は、何時もとは違う表情を見せ、何かを聞いて欲しそうにしている彩雅に内心で苦笑いを浮かべた。


 以前にも、刺繍を施した手巾を欲しいと自分から言い出せなかった女性だ。

 今回も静麗に何かを言いたいのに、それを自分からは切り出せないのだろう。



「葉貴人様は、今日は随分機嫌が良いようですが、何か良い事でもございましたか?」 


 静麗がそう話を振ると、彩雅は顔をつんと上に上げ、少し照れた様に頬を染めて、ええ、と強く頷いた。


 そうして煌めく瞳で静麗を見つめると誇らしげに言い放った。



「私、先日陛下のお渡りをお受けしたのよ」

「……ぇっ……?」



 静麗は彩雅の言葉に動揺したように、小さく声を上げた。




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