一. 直訴
暑さがやわらぎ、爽やかな風が吹く天候の良いその日、静麗と芽衣の二人は後宮の正門である銀星門の近くまで出向いていた。
静麗が後宮に入ってから、既に半年以上の月日が流れていた。
静麗は女官長を通して、朝廷に何度も皇帝陛下への目通りを願い出ていたが、結局一度も許可が下りることは無かった。
仮にも側室という立場を授けた静麗に対して、何故許可を与えてくれないのかと、悲しみと悔しさを噛みしめて日々を過ごしていた静麗だが、朝廷が拝謁の許可を与えなかったのか、皇帝陛下自身が静麗と会うことに拒否を示したのかも分からないままだった。
だが、何もせずにこのままこの後宮の片隅で一生を終えることなど出来ない。
出来る事は全てやってみようと静麗は考え、行動に移すことにした。
静麗が皇帝陛下の姿を目にすることが出来るのは、後宮で行われる宴や行事に皇帝陛下が御光臨された時か、皇帝陛下が他の側室に会いに後宮を訪れた時のみなので、それほど機会は多くない。
宴等では、静麗の様に身分の低い側室達は、高位の側室達の手前、下座からは迂闊に動くことは出来ない。
かと言って、他の側室達との逢瀬に割り込めるほどの度胸は静麗には無かった。
その為、静麗は後宮の最奥に有る月長殿から、態々後宮の正門である銀星門までやって来たのだ。
運が良ければ、他の側室達に会う為に後宮へとやって来る皇帝陛下を、銀星門で捕まえることが出来るのではないかと考え、静麗は芽衣と二人で月長殿から長い距離を歩いて後宮の正門前までやって来た。
以前にも皇帝陛下を待っていた時に座っていた池の側の長椅子に腰かけ、じっと荘厳な銀星門を眺めていた静麗は、あの再会した日の事を思い出していた。
皇族としての華やかな装いに身を包み、官吏や武官を従えて銀星門から颯爽と現れた美しい青年。
まだ、仮の即位しかしておらず、皇后娘娘や他の多くの側室達を娶る前、この場所で再会したあの時の皇帝陛下は、まだ静麗の夫の浩然であった。
しかし、その直後に夫は美しく高貴な姫君であった皇后娘娘と出会い、その美しい女性を正妻として娶り、皇帝陛下と成った自分の隣に立つことを許した。
もし、あの再会した時に、……夫が皇后娘娘や高貴な姫君達と出会う前に戻ることが出来ればと静麗は考え、しかし、直ぐに首を緩やかに振った。
今更考えても虚しさが募るだけで、何もならない。
それよりも、今は何とか穏便にこの後宮から出ることが出来ないかを考える方が先だ。
最下位の平民の側室を一人、後宮から追放するだけだ。
何も難しい事では無い筈だ。
一度はこの後宮で生きていく決意を固めたが、もし出ていくことが出来るのなら、その方が誰にとっても良いだろう。
出来るかどうかは分からないが、何もせずにこのまま後宮で朽ちていくように生きるのは嫌だ。
どうしても後宮から出ることが叶わなければ、その時にもう一度覚悟を決めればよい。
静麗は皇帝陛下に直接願うことが出来れば、それが後宮から出る最後の機会になると考え、強く手を握り締めた。
◇◇◇
「あら、其処の平民。何故お前の様な者が、このような皇宮に近い場所まで出てきているの? お前のような身分の低い者は、後宮の最奥にあるあの寂れた殿舎から出てきては駄目では無いの」
突然後ろから侮蔑を含んだ声を掛けられた静麗と芽衣は、驚きに身を強張らせて振り返った。
其処には二人の側室と複数の侍女達が立って静麗達を見下ろしていた。
銀星門に意識を集中していた為、側室達が側まで近寄っていたことに気付けなかった。
静麗達は慌てて椅子から立ち上がると、二人の側室に対して揖礼を行う。
側室達は其れに対して何の返礼もせず、目を細めて静麗を睥睨して来た。
「聞かれたことに答えなさい。この様な場所で何をしているの」
尊大な態度で問質してきた側室達には見覚えがあった。
静麗の比較的近くの殿舎に入って来た、貴人位の側室達だ。
まずい人物に出会ったと、静麗は表情を変えずに内心で困った。
皇宮に近いこの辺りに住む高位の側室達なら、静麗を見ても顔を顰める程度で、直接話しかけてくることも無いのだが、位の低い貴人達程、静麗に対して絡んでくるのだ。
「あの、私は……」
静麗は正直に皇帝陛下を待っていたなどと言えるはずも無く、どう言ってこの場を収めようかと悩んだ。
芽衣は静麗の斜め後ろに立ち、心配そうに自分の主の小さな背を見つめた。
側室同士の話に、侍女が割り込むことなど出来ないが、以前下位の側室に静麗を傷つけられた記憶を持つ芽衣は、何時でも動けるように身構えていた。
側室はそんな事には気付かずに、静麗と芽衣の顔を見て、その後銀星門を見た。
そしてもう一度静麗を見ると、嫌な笑いを浮かべた。
「お前、もしかして、陛下の麗しいお姿を拝見したくて、こんな場所まで出て来たの?」
側室の言葉に、隣に居たもう一人の貴人が大げさに驚いたような声を上げた。
「まぁ、そうなの? 陛下にお会いすることも出来ない憐れなお前では、陛下の美しい御尊顔を盗み見ることしか出来ないのですものね。なんて惨めなのかしら」
側室達の嘲る声を聞きながら、静麗は唇を噛みしめる。
確かに静麗は皇帝陛下に会いたくて、後宮でも一番華やかな銀星門前まで出て来たが、側室達が思っているような理由からでは無い。
皇帝陛下の寵愛を得たい為、関心を集めたい為では無く、後宮から出るために皇帝陛下に会いたいのだ。
しかし、そんな話をしても、きっと誰も信じることは無いだろう。
この後宮に住む者達は皆が皇帝陛下に振り向いて貰う為に、必死なのだから。
「貴族の私が聞いているのよ! 返事をなさい!」
黙ったままの静麗に苛立ち、側室が大きな声を上げたその時、ざわざわと多くの人の気配が近づいてきた。
側室達と静麗がはっとして其方を振り向けば、大勢の侍女や武官達に囲まれた誰かが歩いてくるのが見えた。
侍女や護衛の数の多さから、かなり高位の側室だと分かったが、その側室の姿は周りを囲む人垣に隠されて見えない。
その時一人の侍女が前に進み出て来て、静麗達に問い質した。
「これは何の騒ぎですか? ここは後宮の入口、銀星門の前ですよ。その様な場で、あのように大きな声を上げるなど、はしたない真似はおよしなさい。其れに、皇后娘娘の御前です。貴女達は控えなさい」
侍女の言葉に、静麗だけでなく側室達も息を飲み、皆が一斉にその場で膝を突き、皇帝陛下の御正室であり、後宮の主である皇后娘娘に対して頭を垂れて拝跪をしたのだった。




