四. 訪客
静麗が浩然の妻となって半月と少し経ち、漸く婚家での生活にも慣れてきた頃、羅家に一人の客人が訪れた。
浩然は静麗の実家である蒋家の商売を継ぐことが決まっており、静麗の父に付いて仕事を教わりながら働いていた。
その為、日中は屋敷に不在だ。
また、普段であれば祖父母が屋敷に居るのだが、今日は生憎と所用で二人揃って遠方まで出かけていた。
その日の朝、浩然と祖父母達が出掛けるのを門で見送り、一人になった静麗は、洗濯から戻ってきた浩然の衣服を、夫婦の寝室にある真新しい箪笥に仕舞っていた。
―――ふふっ、私、本当に浩然の妻になったのね
浩然の衣服を抱き締め、照れ笑いを浮かべる。
部屋の片づけを終えると、使用人と一緒に昼餉を準備し、裏庭の見えるお気に入りの部屋で食べる。
祖父母には料理もしなくても良いと言われていたが、何もしない方が落ち着かず、掃除、洗濯は使用人にお願いするが、料理は手伝いたいと願い出ていた。
浩然もその気持ちを汲んでくれて、祖父母に静麗の好きにさせてあげて欲しいと頼んでくれた。
お陰で静麗は厨房に入れるようになり、使用人に新しい料理を教えてもらいながら、楽しく毎日を過ごしていた。
◇◇◇
「若奥様、よろしいですか」
昼餉を終えて、お気に入りの部屋で刺繍をしていた静麗は、古参の使用人の声に顔を上げた。
「どうしたの」
「はい、あの……今、旦那様にお客人がお見えになったのですが……」
使用人がいう旦那様とは御爺様のことだ。
浩然は先月までは坊ちゃんと呼ばれていたが、婚姻後は若旦那様と呼ばれ、照れていたのを微笑ましく見ていた。
「まぁ、そうなの。困ったわね。今は御爺様達も浩然も居ないのに……出直してもらえないかしら?」
静麗は眉を下げ、困ったように首を傾げる。
使用人も困った顔で首を振った。
「それが、…お客人は大層立派な男性なのです。乗って来られた馬車も大層立派な物で、もしかしたら、貴族の位をお持ちの方かもしれません」
「えっ?!そんな、大変だわ。……とにかく、お待たせするのは駄目ね。応接間にお通しして、お茶をお出しして。それから、誰か浩然に知らせを走らせて。私も直ぐに応接間へ行くから」
寧波には古くから続く貴族制がある。
貴一品から貴十五品まで、十五の位に分けられた品等の貴族達によって形成されてきた。
その血統に特権的な地位を与えられ継承してきた貴族達は、領地を経済的な基盤として支配的な地位を守っていた。
ここ雅安で貴族の位を持つ者は領主一族のみだ。
平民と貴族の間には決して越えられぬ厚い壁があった。
一通り指示を出すと、急いで夫婦の部屋に戻る。
鏡を見ながら糸屑が付いていないか、髪は乱れていないかと、身だしなみを確認する。
静麗は祖父母に作って頂いた、新しい深衣を身に纏い、結い上げた長い髪には既婚者の証である簪を二本差している。
この簪は浩然からの贈り物で、婚姻の申し入れ時に一本、婚儀の席でもう一本頂いた物だ。
一つは紅水晶を花の形に彫った物で、もう一つは桃色の珊瑚の玉の簪だ。
どちらも、小振りながら上品な品物で、平凡な静麗にも良く似合っており、お気に入りの逸品だ。
鏡でおかしな所が無いことを確認すると、急いで来客が待つ部屋に向かう。
戸の前で一度大きく深呼吸し、中へ声を掛けると、戸を静かに開く。
中には使用人が用意した茶を飲む男性が一人座っていた。
着ている服装や、茶を飲む洗練された仕草。
三十代後半程に見える男性は、落ち着いた貫禄を醸し出している。
一目見ただけで、身分の高い男性だと分かる。
もしかしたら、本当に貴族の位を持っている方かも知れない。
ごくり、と唾を飲み込み、男性に対して両手を組み、頭を下げて揖礼をする。
礼をしてから、もし、貴族の方なら拝跪礼の方が良かったかも、と不安を覚える。
「お待たせ致しました。羅家へようこそお出で下さいました。申し訳ございませぬが、当主は只今出かけております。代わりにご挨拶をさせて頂きます。当家の嫁の静麗と申します」
静麗が緊張しながら挨拶をすると、男性はぴくりと動き、目を細めた。
冷静に観察する様な視線を向けられ、静麗の鼓動は早くなる。
「そうですか、貴女が」
男性は小さな声で呟く。
「え?あの、何か……?」
静麗は男性の言葉を聞き取れず、首を傾げて聞き返した。
すると男性はにこりと柔和な顔で微笑み、直ぐに立ち上がると静麗に丁寧に礼を返した。
「突然お尋ねする非礼をしたのは此方です。貴女が謝られることはありませんよ。私は、皇都の朝廷で官吏をしております、閻 明轩と申す者です。ご当主とそのご家族にお願いしたい議があり参りました」
皇都の朝廷と聞き、静麗の顔は強張った。
男性の身分が高いであろうという緊張とは別に、羅家は皇都に対して複雑な思いがある。
静麗はぎこちない笑みを浮かべて、閻に椅子を勧める。
「どうぞ、お座りになって下さい。皇都の官吏様、でございますか。どう致しましょう。当主は不在でございますが、何かお伝えすることがありましたら、私でよければお聞きいたしますが」
静麗は自分も腰を下ろしながら、早く浩然が帰ってこないかと思った。
◇◇◇
浩然が息を切らせて帰ってきた頃、静麗は閻 明轩と名乗った男性とかなり打ち解けていた。
閻は身分を感じさせない穏やかな態度で接し、また話が巧みで、雅安から出たことの無い静麗に、華やかな皇都の風景や、祭りの様子などを興味深く語って見せた。
田舎町で生まれ育った静麗はその話に引き込まれ、皇都への憧れを抱いた。
華やかな皇都の様子を想像し、一度は行ってみたいと思った時に、浩然が部屋に入って来た。
静麗は椅子から立ち上がり、申し訳なさそうに浩然を出迎える。
「浩然、お帰りなさい。ごめんなさい、仕事中に呼び出したりして」
「ただいま、静麗。大丈夫だよ。御義父さんには、ちゃんと言ってきたから」
浩然は静麗を宥める様に言い、直ぐに閻に向き直ると揖礼をし、挨拶を述べる。
「ようこそ、お客人。羅 浩然と申します。当主はご覧の様に、不在となりますので、俺がお話を伺っても?」
「おお、貴方が羅家の御子息であられますか。私は、朝廷で官吏をしております、閻 明轩と申します。どうぞ、お見知りおきを」
立ち上がり、にこやかに挨拶を返す閻の態度と、朝廷の官吏という言葉に、浩然は僅かに眉を顰めるが、直ぐに笑顔を浮かべる。
「それは遠くからの旅路、さぞ大変だったことでしょう。どうぞ、掛けてください」
閻に椅子を勧め、浩然も腰掛けると、側に立っている静麗に声を掛ける。
「静麗、ここはもう大丈夫だから、下がっていて」
「はい、浩然。では、閻様、失礼いたします」
静麗は丁寧に閻に頭を下げると部屋を出ていく。
廊下に出て少し歩いた所で大きく息を吐いた。
―――朝廷の官吏様が一体何の用でこんな田舎町まで来たのかしら?何事もなければいいんだけれど……
羅家には出来るだけ朝廷や皇都と関わりたくない事情がある。
それを良く知っている静麗は、今出てきたばかりの部屋を振り返り、不安な気持ちを抱いた。