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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第五章

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七. 献上

 


 前皇帝陛下の息女である、春燕チュンイェン公主殿下から紹介された後宮の御用商人 リィ 一諾イーヌオが持ってきた多数の布や糸の見本を、月長殿の居間の円卓の上に広げ、静麗ジンリーは真剣な表情でそれらを吟味していた。

 春燕も横から糸や小さな玉を手に取って、楽しそうに選んでいる。


「此方の色の方が芽衣ヤーイーには似合いそうだけど、でも、此方の布の方が品質はいいわ。これは宜春イーチュン産の物かしら。それに、織りが綺麗だわ。きっと良い織り手が丁寧に作ったのね」


 静麗が独り言の様にぶつぶつと呟いていたのを聞いた一諾は、おやと眉を上げた。


ジィァン貴人様。貴女は布に関しての知識がおありなのですか?」

「えっ?……あぁ、知識という程ではありませんが」


 真剣に布や糸を選んでいた為、つい一諾達が居た事を失念していた静麗は、突然声を掛けられ驚いた。

 そうして、一諾の疑問を聞いた静麗は、自分が独り言を呟いていた事に気付き、少し赤面しながら一諾に向き直った。


「私の実家は故郷の雅安ヤーアンで織物問屋をしていますので、布や糸に関して多少は知っています」

「そうでしたか。織物問屋を。雅安というと、畜産などが盛んな温暖な地域で御座いますね」


 一諾の言葉を聞いた静麗は顔を輝かせた。


「まぁ! 李さんは雅安を御存じなのですか? 皇都からも遠く離れた田舎町なのに」


 静麗は皇都の住人である一諾が自分の故郷の名を知っていた事に、驚きと嬉しさを覚えた。

 一諾はそんな静麗の、高揚して赤く染まった頬を見ながら、えぇと頷いた。


「五年以上前でしょうか。父に連れられて一度雅安を訪れたことがあります。その時は、布では無く、家畜の取引の為に訪れたのですが、もしかしたら蒋貴人様とは、その時に雅安の何処かですれ違っていたかもしれないですね」


 楽しそうにそう言った一諾に、静麗は同じように楽しそうに微笑んだ。

 静麗の嬉しそうな様子に、春燕もにこにこと笑いながら二人の様子を見ていた。



「では、静麗お姉様。其方の布と糸にしますか?」

「えぇ。……あの、李さん。此方の宜春産の桃色の布と、此方の糸。其れから、この緑の玉でおいくらになりますか?」


 静麗は少し怖々と一諾に尋ねた。

 静麗の側室としての禄は少ない。

 何かあった時の為にと、貯めておいた僅かな金子で支払うことが出来るのかと、今更ながらに不安が沸き起こった。



 ―――せっかく気に入った物が見つかったけど、私の手持ちの金子で間に合うのかしら。後宮では何があるか分からないから、余り多くの金子は使えないし…



 静麗の不安そうな顔を見た一諾は、ふっと優しく目を細めると、静麗に恭しく頭を下げた。



「蒋貴人様。この度ご購入頂く商品に関しては、私からの献上品としてお受け取りいただけますか?」

「え? ……献上品?」


 静麗は首を傾げた。


 自分が大国の皇帝陛下の側室であるという自覚が中々持てない静麗には、一諾から品物を献上されるような立場に自分があるとは考えていなかった。

 静麗の意識の中では、側室とはなっても貴族になった訳では無く、自分はあくまでも平民であった。



「あの、そんなの悪いです。私はそんな偉い立場の者ではないので、ちゃんと払わせてください」


 静麗の言葉を聞いた一諾はますます嬉しそうな顔をして、いいえ、と首を振った。


「貴女様は、この寧波ニンブォの皇帝陛下の御側室様で御座います。それに、公主殿下の大切なお方。其れだけでも私にとっては意味があります。それに、……今後も御贔屓にして頂く為の、これは言わば賄賂で御座います」


 そう言うと、一諾は目を細めて悪戯っぽく笑った。


 公主殿下や、名ばかりとはいえ側室の自分を前にして、堂々と賄賂などと言う一諾に静麗はぽかんとして口を開けて呆けていたが、次第におかしそうに、くすくすと笑いだした。


「静麗お姉様。気兼ねせずに受け取っておけばいいと思うわ。李にとっても、後宮内で新しい縁を結びたいという思いもあるのでしょうし」


 春燕は一諾の態度には慣れているのか、平然として静麗に受け取れと勧めてくる。

 静麗は少し逡巡していたが、春燕に促されて断るのもどうかと思い、受け取ることにした。



 その後一諾は全ての見本を片付けると、布と糸、それに玉は二日後に月長殿まで届ける事を約束し、春燕と静麗に対して跪き、退出の挨拶を述べた後、侍女に伴われ居間から出ていった。

 それを居間の椅子に座ったままで見送った静麗は、大きく息を吐いた。



 後宮の御用商人から品物を献上されるという、平民では考えられない事態に少し困惑していた静麗だが、希望通りの品物を二日後には手にすることが出来る。

 其れから急いで作れば、芽衣の誕生日には贈り物として仕上げることが出来るだろう。

 芽衣が喜んでくれれば良いがと、静麗はすこしくすぐったい様な、わくわくとした感覚を味わった。



「公主殿下。御用商人の李さんをご紹介下さり、ありがとうございました。お陰で芽衣に贈り物を用意できそうです」


 静麗が春燕に深く頭を下げながら改めて礼を述べると、春燕は楽しそうに首を振った。


「いいえ。私も楽しかったもの。でも、静麗お姉様は出来上がった商品を購入するのではなく、御自分で作られるのね。……いいわね。私は、お母様がおられた頃は、裁縫の手習いを御姉様と一緒に受けていたけど、苦手だからいつも逃げ出していたの。……もっと、ちゃんと習っておけばよかったわ」


 少し寂しそうにする春燕に、静麗は戸惑った。


 静麗も刺繍や裁縫は母親から習ったものだ。

 だが、春燕には手ほどきをしていた母はもう居ない。

 侍女達がもしかしたら母親の代わりに教えているのかもしれないが、春燕にとっては、自分に仕える使用人だ。

 どれ程侍女達の事を信頼していても、公主殿下として、使用人達の主として振る舞わなければいけないのでは、素直に甘えることも出来ないだろう。


 静麗は少し迷ったが、結局は口に出して言ってしまった。


「公主殿下。もし宜しければ、私が刺繍や裁縫の手ほどきを致しましょうか? 刺繍は得手ですから、多少でしたらご教授出来るかと思います」

「……いいの?」


 上目遣いで静麗を見ながら、春燕は小さな声で尋ねた。


「私が、月長殿に入り浸っていたら、後宮の煩い雀達がまた騒ぐかもしれないわ。静麗お姉様はそれでも、いいの?」


 春燕の言葉に静麗は驚いた。

 静麗の現在の後宮での立場を理解して、気遣ってくれている。


 確かに春燕が月長殿を度々訪れるようになってから、月長殿に近い殿舎に住む、下位の側室達やその侍女達からは、公主殿下にも取り入った、見境の無い恥知らずの平民と言われていた。

 だが、その事をまさか成人前の春燕が知っているとは思わなかった。

 幼くとも、後宮で生まれ育った、後宮を知り尽くした生粋の皇女様なのだろう。


 少し驚いた静麗だが、平民である自分の事を想いやれる心を持っている春燕の事が、愛おしくも誇らしく感じて、笑みを浮かべて大きく頷いた。




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