五. 公主殿下
朝廷へと皇帝陛下へのお目通りを何度か願っていた静麗だが、いずれも許可を受けることは出来なかった。
朝廷が許さなかったのか、それとも皇帝陛下自身が静麗と会いたくないと言ったのかは分からない。
だが静麗は、拝謁に否と告げられても、何度も、何度も朝廷へと願い出ていた。
今を逃せば、もう機会が巡ってこないような気がして、諦めきれなかったのだ。
そんな日々を過ごしていた静麗だが、最近の月長殿では、以前とは異なる事があった。
それは、橄欖宮の裏にある雑木林で出会った春燕公主殿下が、宣言通りに月長殿を訪れた事だ。
まさか本当に、公主殿下の様な身分の高い姫君が、平民の静麗が主の月長殿を訪れるとは思っていなかったので心の底から驚いた。
しかし、何も聞いていなかった芽衣の驚愕はもっと激しく、先触れの使者が帰った後は、何故そんな大切な事を教えて下さらなかったのかと、半泣きになりながら、詰られた。
静麗は悄然として、ごめんなさい、としか言えなかった。
―――だって、本当に来るだなんて、思わなかったんだもの。それに、雑木林の中での事は、公主殿下と私だけの秘密だから、言えなかったのよ……
静麗は溜息を飲み込み、芽衣は公主殿下をお迎えする為の準備にと、慌ただしく居間を飛び出した。
◇◇◇
春燕公主殿下の侍女が先触れとして訪れた日の午後、春燕は二人の侍女と一人の近衛武官を引き連れて、輿に乗りやって来た。
「ご機嫌よう。蒋お姉様」
そう言って、芽衣に先導されながら、静麗の待つ居間へと入って来た春燕の言葉に、静麗と芽衣、そして一緒に来ていた公主殿下付きの侍女も驚き、春燕を凝視した。
「よ、ようこそ、お出で下さいました。公主殿下。……あの、お、お姉様?」
「あら、何か間違っていて? 貴女は皇帝陛下の御側室。皇帝陛下は私の異母兄妹。という事は、貴女は私の義姉。そうでしょ?」
そう言うと春燕は微笑んだ。
ただ、静麗にはその微笑みはにこり、では無く、にやり、に見えてしまい、春燕に対して引き攣った笑顔を返すのが精一杯だった。
先日の泣きぬれた公主殿下の様子と、今の奔放な様子の違いに、静麗は乾いた笑い声を上げるしかなかった。
―――でも、公主殿下本来の性質は此方なのかもしれない。先日の様子は、家族を亡くしたばかりの成人前の少女のものだったんだわ。……私に心情を打ち明けたことで、少しでも公主殿下の御心が癒されたのなら、良かったわ
「今日は、蒋お姉様と頂こうと思って、皇都で評判の菓子を取り寄せたのよ。一緒に頂きましょう」
そう言うと、静麗の前を通り過ぎ、円卓の前の椅子にふわりと腰を下ろした。
歩く姿や、腰かける姿はさすが皇族と言いたくなるほどの優雅さだが、その自由気ままな様も、ある意味皇族らしいのかもしれない。
「蒋お姉様? お座りになって」
にこりと微笑み、首を傾げる様は大層愛らしいが、静麗に椅子を勧める様子は、どちらがこの殿舎の主だか分からない。
毒気を抜かれた静麗は、ふふ、と小さく笑うと、春燕の前の椅子に、失礼いたしますと言って腰を下ろした。
「公主殿下、私の事は、もし宜しければ、静麗とお呼びいただけますか?」
「? ええ。いいわよ。静麗お姉様ね」
―――あぁ、静麗にもお姉様はつくのね
静麗は苦笑いを浮かべた。
本来、公主殿下のような、皇族という一番高貴な位の姫君と対面して話をするなど、静麗には恐れ多く遠慮したい所なのだが、先日の泣きながらしがみ付いて来た、成人前の少女の姿が静麗の脳裏には残っており、この健気で強い少女と仲良くなりたいという思いが沸き上がってきていた。
「静麗お姉様見て、綺麗でしょう? これは今皇都で評判の花を模った菓子なの」
侍女が円卓の上に置いた小箱を、春燕は自ら開けて箱の中身を静麗に見せてくれた。
それは、美しい花々を模して造られた小さな菓子だった。
「まぁ、凄いわ。こんな綺麗な菓子は初めて見ました。やっぱり皇都には、色々な物があるのですね」
菓子を見て感心した様にいう静麗に、春燕は口角を上げて、少し得意そうな顔をして見せた。
「えぇ。此処は、大国寧波の皇都ですもの。あらゆる物が揃っているわ。静麗お姉様も必要な物があれば、私に仰って。私の御用商人に取り寄せさせるから」
「ありがとうございます、公主殿下。その時はぜひ」
春燕の微笑ましい様子に頬を緩ませて、静麗はお礼を述べた。
―――でも、私が御用商人に頼んでまで必要とする物なんか、思い浮かばないんだけどな
衣食住という生活面だけを見れば、故郷の雅安にいた頃よりも、遥かに恵まれた環境に身を置いている。
これ以上何が必要なのか、貴族でない静麗には見当もつかない。
今の唯一の願いは故郷へ帰る事だが、女性皇族が政に関わることは無いと聞いている。
それに、成人前の春燕公主殿下にお願いしても、とても叶うとは思えなかった。
その後、夕刻までの時間を春燕は静麗の殿舎で過ごし、お時間です、と侍女に促されて渋りながらも帰路についた。
また来るから! と静麗に言い置て。
まるで小さな台風のような慌ただしさだった。
しかし天真爛漫な公主殿下の様子は、静麗の心も明るくし、とても楽しい一時を過ごすことが出来た。
春燕が芽衣に先導されて居間を出た後、公主殿下の専属侍女が一人、静麗へと近づいて来た。
三十路程の年齢の落ち着いた雰囲気の侍女だ。
だが、以前庭園で侍女達に取り囲まれて、責められたことを思い出し、静麗は一瞬ぴくりと反応したが、侍女は静麗の前で両手を組むと深く頭を下げて拱手をした。
「蒋貴人様。本日は春燕様の我儘をお聞き頂き、有難う御座いました。先日も、何かお世話になったそうで、申し訳御座いません」
「あ、いえ。とんでも御座いません。私は、何もしておりません。どうか、頭をお上げ下さい」
静麗は慌てて手を振り、侍女に頭を上げるように促した。
侍女はそんな静麗を暫し見つめた後、ふっと笑うと、言葉を続けた。
「春燕様は、御母上様や、姉上様を亡くされてから、ずっと塞ぎ込んでおりました。しかし、先日とても良い事があったのだと。……姉上様に会ったのだと仰っておられました。本日蒋貴人様にお会いして、その意味が分かりました。貴女は、姿形は似てはおられませんが、纏う雰囲気が春燕様の姉上様にとても良く似ておいでです。どうか、春燕様の御心をお慰めする為にも、此れからも此方の殿舎へお伺いすることをお許し下さいますか?」
侍女の言葉に、先日と今日の春燕の様子を思い出す。
亡き姉に似ているというのなら、納得できる事が沢山ある。
まだ十三歳でしかない公主殿下が、自分と会うことで少しでも慰めになるのなら、断る理由など何も無い。
それに、静麗に会いに来るように命じるのではなく、公主殿下が月長殿に赴いて下さると言っている。
静麗の現在の状況を把握しており、配慮して下さっているのだろう。
「はい。私も公主殿下とお会いするのを楽しみにお待ちして居ります。何時でもお越しください」
静麗の返事に、侍女は再び深く頭を下げると、居間から退出していった。
その日から度々、春燕公主殿下が後宮の最奥へと輿や馬車で移動する姿が見られるようになり、後宮の住人達は公主殿下が何処へ向かうのかと、不思議そうにそれを見ていた。




