四. 忍音
芽衣に、皇帝陛下への目通りを願い出たい、と話してから数日が経った。
あれから直ぐに芽衣は女官長を通して、朝廷へとその旨を願い出てくれている筈だが、未だに返事は来ない。
静麗は焦れる気持ちを宥めながらも、もう数日待って、返事が来なければもう一度、目通りを願おうと考えていた。
其れから暫く経った、日が照り付ける暑いある日に、静麗は何処からか子猫の鳴き声のような小さな音を耳に拾った。
不思議に思い、月長殿の裏庭に出てみると、その声は裏庭の塀の向こう側から聞こえてきた。
静麗の宮は後宮の中でも最奥に位置する。
その宮の後ろには、雑木林があり、その向こうは後宮と外を隔てる長く高い塀があるだけだ。
不思議に思い、静麗は橄欖宮から一人で外へと出ると、ぐるりと橄欖宮を囲む塀伝いに雑木林の中を歩いてみた。
声はやはり、静麗の宮と、後宮と外を隔てる塀の間の雑木林の中から聞こえていた。
「誰かいるの?」
静麗は子猫の様な鳴き声が、少女の泣き声だと気付き、雑木林の奥へとそっと声を掛けた。
すると、がさりと木々が揺れる音がして、泣き声もぴたりと止んだ。
「そこに、誰かいるの? どうして泣いているの?」
少女を怖がらせないように、優しく声を掛けた。
こんな人目につかない場所で泣いているなど、もしかしたら下働きの少女なのかもしれない。
そう思った静麗は、泣き声が聞こえていた辺りの木の枝を掻き分けて、少女の前へと進み出た。
そこでは思った通り、まだ成人前に見える少女が地面に腰を下ろした状態で、座り込んでいた。
泣きはらしたような赤い目をして、驚いたように静麗を見上げている。
静麗は少女の前に膝を突き、目線を合わせて優しく微笑んだ。
「どうしたの? 何か悲しい事でもあったの?」
静麗の優しく落ち着いた声を聞いた少女は、見る間に目に涙を浮かべると、その場で顔を伏せてまた泣きだしてしまった。
静麗はそんな少女の隣ににじり寄ると、そっと髪を、背を撫でて、大丈夫、大丈夫と囁き続けた。
暫く泣き声を上げていた少女だが、次第に落ち着きを取り戻すと、その顔を上げて静麗をじっと見てきた。
「落ち着いた?」
静麗が優しく尋ねると、こくりと頷いた。
「そう。でもこんな場所で、どうして一人で泣いていたの?」
静麗の問いかけに少女は迷うようなそぶりを見せた。
「あぁ、無理に話すことはないのよ。でも、人に話すことで、心が軽くなることもあるのよ。もし良ければ、私に話してみないかしら。私は誰にも言ったりしないから」
静麗は、今まで芽衣や伝雲に辛い事を聞いてもらうだけでも、随分と救われてきた。
だから、この少女が何故泣いていたのか、せめて聞いてあげることで、少しでも心が軽くなればと思い、提案してみた。
暫く俯いて悩んでいた少女だが、やがて静麗の顔をもう一度見て、決心した様に口を開いた。
「私は、人前で泣いてはいけないの。どんなに悲しくても、品位を落とすから、駄目だと教えられたの。だから、泣きたくなった時は、人の居ない場所を探して泣いていたの」
静麗は少女の言葉に少し前の自分を思い出した。
芽衣に心配を掛けたくない為に、月長殿を抜け出して、一人になる場所を探していた自分を。
「そうなの。だからこんな場所にいたのね。でも、何があったの?」
「……父上や、母上。姉上も居なくなって、たった一人残った兄上も、静養という理由で皇都から離されてしまったわ。兄上が就く筈だった場所には、平民が収まってしまった。……私の周りにはもう、誰も残っていない……」
そう言うと、また瞳に涙を浮かべた。
しかし、静麗は少女の言葉に固まってしまった。
―――もしかして、この少女は、下働きなんかじゃなくて……
よくよく少女を見てみると、その身に纏っている衣装は目立たぬ色をしていたが、高級な物と分かる。
そして、その顔。
下働きと思いこんでいたが、泣き濡れたその顔を良く見れば、何処かで見たことがある。
あの皇帝陛下即位の日を静麗に知らせた、綺麗な声の持ち主。
―――この子は、前皇帝陛下の御子の 梁 春燕公主殿下じゃないの!
気付いた静麗は、蒼褪めた。
まるで平民の子供を慰めるようにしてしまったが、相手は本物の皇女様だ。
慌ててその場に平伏しようとしたが、その前に少女がぶつかる様にして静麗にしがみ付いて来た。
「お母様、お姉さまっ、うぅぅ、うぇえ……寂しい、の。……もう一人は嫌なの、帰ってきてよぉっ」
そう言うと、幼い子供の様に泣き出してしまった。
静麗は驚きに固まったが、やがて、ふぅと息を吐くと、自分に抱き着いてきた公主殿下をそっと抱きとめ、その背を優しく、とんとんとん、と叩いてあやした。
◇◇◇
「落ち着かれましたか」
「えぇ、もう平気。ごめんなさい」
二人は雑木林の中で向かい合って、直接地面に座り込んでいた。
少し頬を染めて、恥ずかしそうに、つんと顔を上げて春燕は横目で静麗を見た。
「いいえ。此方こそ、公主殿下だとは直ぐに気付かずに、ご無礼を致しました」
春燕は静麗の謝罪に、ふるふると首を横に振って応えた。
「公主殿下、私はこちらの 橄欖宮 月長殿をお借りしている……蒋 静麗です。……貴人の位を賜っています」
月長殿の方を指さしながら、自分から蒋を名乗ることも、貴人位を告げる事にも、少し胸がチクリと痛むが、その想いには蓋をして春燕に微笑んで見せた。
「……知っているわ。皇帝陛下の平民時代の元夫人で、今は側室の蒋貴人。後宮で貴女を知らない人は居ないもの」
「そう、ですか」
静麗は苦い思いを飲み込んで、春燕に頷いた。
そんな静麗をじっと見て、何かを考えている様子の春燕だが、徐に立ち上がると、上から静麗を見おろした。
「皇帝陛下は兄上の場所を奪った張本人だから、お好きにはなれないわ。でも、……」
そこまで言うと、突然草木を掻き分けて歩き出した。
静麗も慌てて立ち上がり、その小さな背を追う。
二人で雑木林の中を無言で歩き、橄欖宮の門の前まで来ると、春燕はくるりと静麗の方を振り返った。
「蒋貴人。また来るわ。今度はちゃんと先触れを出してから来るから、私をきちんと持て成しなさい」
そう静麗に命じると軽やかに駆けだした。
静麗は春燕のその言葉と行動に驚き、ただぽかんと見送るしかなかった。
遠ざかる春燕を見ていると、何処からともなく武官が二人現れ、その小さな公主殿下に付き従い、やがて三人は見えなくなった。
「……驚いたわ。公主殿下みたいな、高貴な少女でも、走ったりするものなのね」
静麗は、春燕の行動を振り返って小さく笑みを浮かべた。
―――公主殿下といっても、まだ、十三歳の少女ですもの。寂しくて泣きたくなることも、宮を抜け出して走る事も、あっても不思議じゃないわ。……それに、成人前の少女が家族を失っても公主殿下として品位を保とうと、人知れずに頑張っているのよ。私も負けてはいられないわ
静麗はうん、と力強く頷いた。
「あ、……でも、浩然。貴方異母妹には、嫌われているみたいよ」
そう呟くと肩を竦め、月長殿へと帰って行った。




