一. 貴妃
その日、貴一品位の大貴族の姫君である娘は、父に呼ばれて書斎まで足を運んだ。
「お呼びで御座いますか、父上様」
「おお、待っていたぞ、此方へ」
父の招きに応じて、書斎にある円卓の前の椅子に腰を下ろした。
ここは、領地から遠く離れた場所である、皇都にある屋敷だ。
父は領地を息子達に任せて、皇都の復興の為に朝廷で連日遅くまで働いていた。
普段は娘も領地に居るのだが、今回は久しぶりに婚約者に会う為に父と共に皇都まで出向いていた。
婚約者は娘と同じ高位の貴族だが、幼い頃に婚約をしてから、数回しか会ったことがなかった。
だが、貴族の婚姻とは、家同士の繋がりであるので、本人達の意思など関係は無い。
それに、娘は正妻として嫁ぐことが決まっていたので、特に不満も無かった。
「父上様、どうなさったのですか」
「うむ。お前の婚儀が決まった。来月にも嫁いでもらうから、そのつもりで準備をしておくのだぞ」
突然の父の言葉に娘は驚いた。
皇都は疫病の為に、皇帝陛下や、多くの皇族達がお亡くなりになっており、婚儀は先延ばしになるという話を少し前に聞いたところだった。
「父上様。其れは急なお話ですが、何かあったのですか?」
「おお、そうだ。お前には皇帝陛下の貴妃として後宮へと嫁いでもらう事となった」
「父上様!? なにを仰っておられるのですか!? 皇族の皇子殿下で、皇帝陛下となる資格を有している者は、もう居ないと嘆いていたでは御座いませんか! 一体、皇帝陛下とは、何の話なのです。それに、私には婚約者がおりますわ」
父はうん、うん、と何度も頷くと、満面の笑みを浮かべた。
「それが、存続を諦めていた現王朝だが、若く健康な皇子殿下が見つかったのだ! そして、既に今日皇都へお入りになっておられる。元は平民だったという話だが、何、皇家が存続することに比べれば、其れぐらいの傷には目を瞑ろう。そこで、直ぐにでも新皇帝陛下の御為に後宮を開くことを朝廷は決定した。皇后娘娘には、皇太子妃になるはずだった朱 薔華様が御着きになるが、定員が三人の貴妃の内の一人に、お前が選ばれたのだ。このような名誉な事はないぞ! 今している婚約は既に解消するように、朝廷から相手の貴族へと通達が出ている。何も心配はない。お前は陛下にお仕えすることだけを考えておればよい」
父は嬉しそうに何度も首を上下に振った。
娘は、そんな父の姿に唖然とした。
その後、正式に即位を果たした皇帝陛下の側室として入宮した娘は、陛下との謁見を行う事となった。
謁見には、娘の他にも貴妃が二人、妃が六人と同時に行われた。
元平民の陛下と聞いていた側室達は、皆複雑な表情を浮かべていたが、貴妃となった娘にはどうでも良い事であった。
婚約者である貴族の正妻から皇帝陛下の側室となったことも、娘にはあまり変わりは無く感じていた。
謁見の場に現れた皇帝陛下を拝見した娘を除く側室達は、想像と違うその麗しい姿に皆が驚き見惚れていた。
顔を赤く染める者や、口を開けて呆けた様に陛下を凝視する者、様々な反応だが、皆この平民上がりの皇帝陛下に好意を抱いたのは間違いが無かった。
娘は少し呆れた様にその様子を見ていたが、皇帝陛下へと意識を向けた。
田舎町に住んでいた平民の青年が、至高の存在である皇帝陛下となったのだから、さぞかし有頂天になっているのだろう、一体どんな様子なのかと注意深く観察した。
しかし、娘の予想に反して、陛下は冷静に側室達を見極めようとする目をしていた。
その夜には、貴妃となった娘は皇帝陛下のお渡りをお受けし、無事に夜伽を済ませる事となった。
共に謁見を果たした中で、己の身分が一番高かった為であろうと解っていたが、周りに侍る侍女や女官達は、貴妃様の美しさが陛下のご寵愛を賜ったと大騒ぎをしていた。
それにも貴妃となった娘は冷めた感情で見ていた。
皇帝陛下のお渡りを数度お受けしてから、少し経った頃、庭園で噂の平民の側室と遭遇した。
皇帝陛下の平民時代の婚儀の相手である、元夫人。
成人を迎えている筈だが、まだ幼く見える少女。
噂を聞いた時には、少し少女が憐れに思えたが、貴族として育った貴妃には、皇族の尊い血筋を残すことは皇帝陛下として当然の義務だと思い、少女も寧波に住む皇帝陛下の民なら正妻の座を皇后娘娘へと喜んで明け渡すべきだと思った。
その少女を庭園で侍女達が取り囲み、攻め立てている醜い様に顔を顰めた。
貴妃は溜息を堪えて、侍女達にこれ以上の暴言を吐かせない為にも、前へと進み出ようとした。
その時、この平民の少女の叫びが聞こえ、眉を寄せた。
後宮には皇帝陛下のご寵愛を受ける為にはどんな事でもする人間がいる。
其処に、この様な後ろ盾も何も無い少女が、あのような挑発するような言葉を発しては、いずれ酷い目に遭うことだろう。
その時、少女の侍女と思しき女性が突然割り込み、少女を庇うように平伏してくる。
貴妃は、自分でも柄でもない事をと、呆れながらも一言忠告しておくことにした。
少女は蹲ったまま茫然と貴妃を見上げていた。
その瞳の中には貴妃の言葉で傷ついた心が透けて見えて、貴妃の心も騒めかせた。
その後、皇后娘娘ご懐妊の祝宴が開かれたが、まだ誰も皇帝陛下の御子を孕む事が出来ていなかった為、他の側室達は、皇后娘娘ご懐妊に喜びの声を上げながらも、悔しい思いを押し殺している事が分かった。
その祝宴や、後宮の様々な行事の場で、あの平民の少女を見かける事もあったが、貴妃は自分からは一切関わる気が無かった為、ただ、蔑まれて悄然とする少女を見ていた。
そんなある日、体調に変化を感じた貴妃は御殿医の診察を受け、皇帝陛下の御子を授かったことを知る。
喜びよりも不思議な気がし、そっと自分の腹を撫でながら、何故かあの平民の少女の顔が脳裏に浮かんだ。
御子を身籠った貴妃を皇帝陛下も労わってくれ、共に後宮内を散策することも何度かあった。
そんな散策中に疲れた貴妃は、庭園の長椅子に陛下と共に腰を下ろして休んでいた。
その時、ふと強い視線を感じ、其方に顔を向けると、あの少女が回廊の柱の陰から此方をじっと見ていた。
その強い視線の中に、悲しみと憎しみを感じた貴妃は皇帝陛下の耳元へ口を寄せて、そっと囁いた。
「陛下。陛下の夫人が此方を見ておられます」
皇帝陛下は一瞬何を言われたのか分からないといった顔をしたが、直ぐに目を見開くと椅子から立ち上がり、貴妃の見ていた方向を振り返った。
しかし、其処にはもう少女の姿はなく、回廊をただ静かに見つめる皇帝陛下の姿だけが、貴妃の記憶に何時までも残った。
何故、態々陛下に少女の存在を教えたのか、貴妃にも自分の行動が分からなかった。
だが、貴妃もあの少女も、そして後宮にいる全ての側室達も、己の意思で無くとも、一度後宮に入った以上は出る事は一生叶わないだろう。
出来ればあの少女がこれ以上、この後宮で辛い思いをしなければ良いと思いながら、美しい皇帝陛下の横顔を見つめ、その御子を宿した腹を優しく撫でた。
大国寧波で一番華やかな、天上にも似たこの場所は、しかし、誰にとっても楽園には成りえないのかもしれない―――




