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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第四章

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十一. 覚悟

 

 後宮の裏門を見た静麗ジンリーは、小さく微笑みを浮かべて足を踏み出そうとしたが、いきなりその肩を後ろから強い力で掴まれ、驚きに小さく悲鳴を上げた。


「ひっ!」


 ただ一心に外へと続く門だけを見ていた静麗は、びくりと身体を震わせると、慌てて振り返った。

 振り返って見たその視線の先には、はぁはぁと、息を切らせたグゥォ 伝雲ユンユンの焦燥の浮かんだ顔があった。


 何時も冷静な伝雲が、珍しくも焦った様子で肩を掴むと、反対の手で静麗の細い腕も強く掴んできた。



「伝雲……」

ジィァン貴人。戻りましょう、今なら間に合います」


 伝雲は静麗の腕を強く掴んだまま、落ち着かせるように静かに語り掛けた。


 静麗は其れに対して首を横に激しく振ると、伝雲の拘束から逃れようと身体を捩り、腕を振るが、普段から鍛えている武官である伝雲の手は離れる事は無い。

 後宮の最奥から此処まで走り通しだった静麗の体力はもう残されておらず、その場にずるずると崩れるように座り込んだ。



「嫌っ、もう嫌なの! お願い伝雲。私を此処から出して! 出してよぉ……」


 震える涙声で訴える静麗に、伝雲はすぐ隣に片膝を突くとその耳元で囁いた。


「蒋貴人、どうかお静かに。余り騒ぐと他の者に気付かれてしまう。それに、貴女お一人の力では、あの巨大な門戸を開くことは不可能です。諦めなさい」


 伝雲は慎重に周りの様子を目の動きだけで確認すると、静麗を立ちあがらせて肩を抱き寄せると、来た道を戻り始めた。

 長い距離をずっと駆けてきた静麗には、もう抗うだけの体力は残されておらず、伝雲に連れられるままに、泣きながら歩き出した。





 月長殿まで戻って来た伝雲は、静麗の肩を抱いたまま殿舎の中へと進み、居間にあった椅子へと静麗を座らせた。

 そして、踵を返すと居間から素早く退出した。

 静麗はそれに気付くことも無く、ただ月長殿の古びた木床を項垂れたまま見ていた。



 その時静麗の脳裏にかつて故郷で見た旅芸人一座の演目が思い出された。

 愛し合う二人が引き離され、最後には相手を想いながら自害してしまう、悲しくも美しい悲恋の物語。

 あの時の静麗はまだ幼く、ただ悲しいとしか感じることが出来なかったが、今ならその女性が死を望んだ気持ちも分かる。

 愛する夫と引き離されただけでは無く、静麗が愛した嘗ての夫はもう何処にも存在しない。

 皇城ここに居るのは、夫の姿形をした、皇帝陛下という静麗には手の届かない遠い存在だけなのだ。




 ふと人の気配を感じてのろのろと顔を上げると、伝雲が居間に戻って来たところだった。

 その後ろには蒼褪めた顔の芽衣ヤーイーの姿も見えた。




 伝雲は静麗の前まで来ると片膝を突き、静麗を下から見つめてきた。


「蒋貴人。何があったかは存じませんが、貴女はこの寧波ニンブォの皇帝陛下の御側室です。どうか、その自覚をお持ち下さい。どれ程辛い事があろうとも、短慮を起こされてはなりません。貴女に何かがあれば、それは貴女だけの問題では済まないのです。もし、貴女がこの後宮から逃げおおせていれば、貴女の侍女殿や、警護をしていた私も重い罰を与えられることでしょう。場合によっては死罪もあり得るのです。それに、貴女の御両親や、一族全てが処罰の対象となりましょう」


 静麗は驚きに顔を上げて、伝雲とその後ろに佇む芽衣の顔を凝視した。


 後宮ここから逃げ出したいと、それしか考えていなかった静麗だが、もし本当に逃げる事が出来ていれば、芽衣や伝雲、それに両親達に対して、顔向けが出来ない様な事態になっていたという事だ。

 静麗は顔をくしゃりと歪ますと、両手で覆った。


「ごめんなさい、芽衣。ごめんなさい、御父さん、御母さん。でも、でも私は帰りたい。雅安ヤーアンへ帰りたいの。……もう、こんな場所には居たくない。……どうすれば、私はどうすればいいの!」


 泣き崩れる静麗を見た芽衣は、はっとして駆け寄ってくると椅子の前で跪き、静麗の手を暖かな両掌で包み込んだ。


「静麗様。……申し訳御座いません。貴女様が苦しんでおられるのを知っていたのに。夜中にお一人で後宮内を出歩かれていたことに気付かなかったなんて……」



 伝雲は静麗とそれに寄り添う芽衣を見つめると、静かな声で静麗を諭した。


「強くお成りなさい、蒋貴人。後宮ここからは誰も逃げる事は叶いません。それに貴女はあくまでも平民であり、最下位の御側室です。この先も辛い事が数多く待ち受けている事でしょう。ですが、負けてはいけません。心を強く鍛えるのです。どのような苦難にも立ち向かえるように強い心を育てるのです」


 そう言うと、静麗を厳しくも暖かな眼差しで見つめた。


「それに、貴女は一人では無い。貴女の侍女殿は何時でも貴女の側で貴女を支えてくれることでしょう。辛ければ、それを口に出しても良いのです。一人で抱え込まずに、侍女殿や、私にも打ち開けて下されば良いのです」


 静麗は茫然と、伝雲の凛々しくも優しい微笑みを見返した。

 一人で抱え込まなくてもいいと、辛ければ口に出しても良いと言ってくれた。

 そして、強い心を育てるのだと。


 静麗はそっと芽衣の方を窺い見た。

 芽衣は静麗の眼を正面から見つめると強く頷いてくれた。



「はい。静麗様。私は言った筈ですわ。ずっと静麗様のお側にいると。……その気持ちは今でも変わりはありませんわ」


 皇帝陛下に相手にもされない、平民の側室である静麗の侍女となっても、芽衣にとっては何一つ良い事など無い。

 きっと静麗と同様に、これからも嫌な思いや辛い思いを沢山する筈だ。

 芽衣にもそれは分かっている筈なのに、それでも芽衣は静麗の側で仕える道を選んでくれるという。



 静麗はきゅっと唇を噛みしめた。



 ―――そうだ。私は冬梅ドンメイ御義母様の様な、愛情深くて毅然とした、強い女性になると誓っていたじゃない



 静麗は、目を閉じて冬梅や両親に祖父母、懐かしくも愛おしい雅安の地に思いを馳せた。


 長い時間瞑目し、そしてゆっくり目を開け、目の前で膝を突く、凛々しくも優しい女武官の顔を、そして困難な道を共に歩んでくれるといってくれた静麗のただ一人の侍女である芽衣を見つめた。




 ―――負けない。皆の為にも。……何よりも私自身の為に、こんな所で負けたりしない!!




 静麗はその日、後宮で生き抜くためにも強くなると己の心に固い誓いを立てた。





第四章 終


次回 挿話

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