三. 婚娶
屋敷の中に入った二人は、祖父母が待つ居間に戻る。
「浩然、蒋御夫妻は無事にお帰りになられたのかしら」
上品な老婦人である浩然の祖母が、椅子に座ったままおっとりと声を掛ける。
その横では祖父が同じように椅子に腰掛け浩然達を見ていた。
「はい。今、見送ってきました」
浩然は母亡き後、今日まで育て、慈しんでくれた祖父母を敬愛しており、丁寧に答える。
「そう、ご苦労様。……静麗?目が赤いわ。大丈夫?」
祖母は静麗に顔を向けると眉を寄せ、椅子から立ち上がった。
そのまま静麗を抱き締めると優しく揺さぶる。
「貴女はまだ、成人したばかりだもの。寂しく思うのも無理はないわ。でも、貴女のご両親には負けるでしょうが、私達も貴女を愛しているのよ。貴女が羅家に嫁いでくれて、浩然と一緒になってくれて、私達は安心したのよ。これからは、私達が貴女の家族となるのだから、不安な事があれば言ってちょうだいね」
「そうだな。静麗が浩然の側に付いてくれるなら、安心だ。わし達はもう年だからな」
「そんな、御爺様達には、まだまだお元気で居て頂かなくては」
幼い頃から可愛がって貰っていた、浩然の祖母の暖かな胸に抱かれ、労わりの言葉を掛けられ、心が緩やかに解れていく。
浩然もそんな家族の風景を嬉しそうに見ている。
「さあ、静麗。もう夜も遅いわ。湯を使って、今日はもう下がりなさい」
「はい。御婆様」
「明日の朝はゆっくりでいいですからね」
祖母は悪戯っぽく微笑むとそう言った。
静麗は、恥ずかしそうに頷くと、祖父母に就寝の挨拶をし、浩然と居間を後にした。
「静麗。先に湯に入っておいで。寝衣は湯殿に新しいのが用意されてるから」
薄暗い廊下を二人で歩きながら浩然に促されて、静麗は素直に頷いた。
「うん。ありがとう、浩然」
静麗は慣れ親しんだ幼馴染の屋敷の中を、迷うことなく湯殿へ向かう。
脱いだ服を丁寧に竹籠に入れると、湯が張られた木造りの湯船の横にある椅子に腰かける。
下働きの使用人が用意してくれた湯をありがたく使い、髪や体を洗う。
生家の蒋家では使用人は雇っておらず、全て自分達で用意していたが、ここ、羅家では違う。
掃除や料理等も使用人がすることとなる。
その為、静麗の仕事は、浩然の身の回りの世話が中心となる。
自分がそんな贅沢をしてもいいのかと思うが、羅家に嫁いだ以上、羅家のやり方を覚えなければ。
そんな事を考えながら、湯船に身を浸けると、ほぅっと溜息が零れる。
この後、浩然と二人きりの夜が待っている。
婚姻の約束をしてから今日まで、手を繋いだり、抱擁を交わしたことはあるけれど、その先は未知の領域となる。
既に嫁いでいる友人にこっそり話を聞いたけれど、はっきりと教えてくれなかった為、良く分からなかった。
とにかく、旦那様に任せておけばいいから、としか言われていない。
―――不安もあるけど、浩然が私に酷い事をするはずが無いわ。確かな信頼を築くだけの時間を私達は過ごしてきている。―――大丈夫。全て、浩然に任せよう
静麗はうん、と一つ頷くと湯船から出た。
用意されていた真新しい綺麗な寝衣を見て、また頬を染めてそれを身に纏い、上から上衣を羽織る。
静麗が湯殿から出ると、交代で浩然が入っていく。
暫く裏庭が見える部屋で待っていると、浩然が湯殿から出て来た。
まだ、髪が濡れており、顔や首に張り付いている。
湯上りの浩然の姿など、子供の頃から見慣れていると思っていたが、状況が違うと変に意識をしてしまい、直視出来なくなる。
「早かったのね。浩然」
「ああ。あんまり静麗を待たせて、湯冷めさせたら大変だからな」
意識してしまい、目を合わせられない静麗と違い、浩然は何時もと変わらなく見える。
それに、少し悔しく感じながらも、浩然を迎えると二人は自然と手を繋ぐ。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
浩然は静麗の手を引いて、静かな暗い廊下を歩き、夫婦の部屋となる場所に向かう。
静麗は早まる大きな鼓動の音が浩然に聞こえないかと、落ち着かない気分を味わいながら、手を引かれて歩く。
浩然は屋敷の奥にある一つの部屋の前で立ち止まると戸を開け、静麗を中に招いた。
使用人が事前に燭台を灯しておいてくれた為、部屋の中が良く見える。
「この部屋には初めて入ったわ。広いのね」
部屋の中をぐるりと見て、浩然を振り返って言った。
「ああ。古いのはどうしようも無いけど、静麗が好きそうな部屋にしたつもりだ」
浩然の言葉にもう一度部屋を見回してみる。
確かに、静麗が好みそうな小さく彫刻が施された綺麗な家具や、美しい模様の淡い色彩の絨毯が敷かれている。
これらは浩然では無く、静麗の好みで揃えられた家具だろう。
「どうだ。気に入ったか?」
静麗を少し不安そうに見ながら浩然は尋ねる。
幼馴染の好みは分かっているが、実際の静麗の反応が気になるようだ。
「うん。気に入ったわ。ありがとう、浩然」
満面の笑みを浮かべて応えると、浩然はほっとした様に息を吐いた。
浩然が自分の事を思って選んでくれた家具や、部屋の調度品だ。
嬉しくないはずがない。
中には静麗が持ってきた花嫁道具も綺麗に配置されている。
―――今日からここが、私達夫婦の部屋となるんだ
静麗は嬉しくも、恥ずかしく、照れて下を向いた。
静麗の返事に安堵した浩然は、落ち着いた様子で部屋を案内する。
「こっちが、静麗の椅子で、こっちが俺。それから、これは……」
楽しそうに一通り説明し、最後に隣に通じる戸の前に立つ。
「えっと……、で、……こっちが俺達の寝室」
照れた様に斜め上を見上げながら浩然は告げ、戸を開ける。
静麗は浩然に釣られた様に照れて赤くなってしまう。
入口から中を見ると、寝台の他に小さな円卓や、新しい箪笥もある。
それらも静麗の好みの明るい色の木材を使用して作られていた。
寝台は二人で使うように、少し大きめの物が設置されている。
寝台のすぐ横の壁の上方には小さな窓があり、鎧戸の隙間から青白い月の光が、寝台の白い敷布の上に降り注いでいた。
浩然は先に寝室へと入ると、寝台の前まで歩く。
そこで振り返り、寝室の前で下を向き、赤くなっている静麗を見る。
緊張と恥ずかしさで動くことが出来ない静麗を浩然は優しく誘う。
「静麗。……おいで」
優しく微笑み、静麗に手を差し伸べる浩然。
静麗はまるで、貴族のような麗しい自分の夫に見惚れ、誘われるままに浩然に近づく。
手の届くところまできた静麗を、浩然は優しく引き寄せ、その両頬に手を添える。
「――静麗」
「浩、然」
浩然は静麗を驚かせないように、そっと屈むと、その唇に優しく触れるだけの口づけを贈る。
己の唇で、初めて感じた浩然のそれは、柔らかく暖かい。
静麗は急に、泣きたくなるような切なさを覚え、胸が苦しくなった。
「静麗。……愛してるよ。お前は俺の唯一だ。ずっと側に居てくれ」
「浩然、……私も大好き。ずっと一緒よ」
二人はもう一度口づけを交わすと、静かに寝台に横たわった。