十. 衝迫
静麗が皇都へ着き、後宮へと閉じ込められてから四月が過ぎた頃、静麗は夜に月長殿を抜け出して、一人後宮内を歩いていた。
昼間は多くの側室や侍女、女官等が行き交う後宮内も夜は静かなものだった。
静麗は芽衣も連れずに一人で橄欖宮の門を通り抜けると、誰も居ない小路の上を灯りも持たずに歩き出した。
辺りは漆黒の闇と静寂に包まれ、静麗が歩く小路から遠く離れた場所には、他の側室達が住む宮へと続く回廊の吊灯籠の淡い灯りが、仄かに浮かんで見えるだけだった。
何時もは常に側に居る芽衣にも黙って、一人で闇に包まれた庭園を目指して歩いていた静麗は、目的地の四阿に着くとほっと息を吐き、長椅子に腰を下ろした。
そうして、一人で夜空に浮かぶ美しい星々と月を仰ぎ見た。
雲一つない澄んだ夜空には、満天の星々と煌々と光る月がまるで降り注ぐように見えた。
静麗は、後宮内で辛い事があった日や、出席を余儀なくされた後宮の行事等に参席した日には、こうして人目を忍んで夜に一人散策に出るようになっていた。
月長殿では、常に芽衣が静麗に気を配って心配してくれている。
とても有り難く、感謝をしているが、宮の外に出て辛い現実を見る度に沈む姿を、これ以上芽衣には見せたくなかった。
月長殿ではどれ程隠そうとしても芽衣にはばれてしまう。
心配を掛けたくないと思うが、芽衣には迷惑ばかり掛けている自覚がある。
芽衣が献身的に尽くしてくれている事は分かっているが、こんな状態が続けば、いつかは、静麗にはもう仕えたくないと言われるのではないかと、不安を抱いていた。
だから静麗は夜になり、芽衣が侍女部屋に下がってから宮を抜け出し、一人になれる場所を探して彷徨っていた。
そうして、後宮内にある庭園や花園で一人、誰にも知られずに辛い現実や、故郷を想い出しては涙を流していた。
その日も、後宮の年中行事の一つに出席し、遥か遠くの席に並んで座る、皇帝陛下と皇后娘娘の仲睦まじい姿を垣間見てしまった静麗は、夜になると宮を抜け出した。
夜空に浮かぶ美しい月を見ながら、静麗は懐かしい雅安での日々を思い返していた。
―――もし、……もしも、私が婚姻後直ぐに、浩然の子を懐妊出来ていれば、浩然は私の事も大切にしてくれていたのかしら……
夜空を眺めながら、故郷での夫との日々を思い返していると、懐かしさと愛おしさが浮かんでくるが、直ぐに虚しさ、悲しみや嫉妬の心が沸き起こってくる。
静麗は首を緩やかに振ると、頭から皇帝陛下となった夫の事を追い出そうとした。
どんなに過去を懐かしんでも、戻ることは出来ないし、現実は静麗にはとても厳しい物だった。
皇帝陛下に見向きもされない元夫人。
厚かましくも皇帝陛下に付き纏う平民女。
一度も皇帝陛下のお渡りを頂けない、役立たずの側室。
後宮で自分の事を評する言葉たちを思い返して、悔しくて静麗は唇を噛みしめた。
皇帝陛下の寵を側室達と競う気など静麗には無い。
ただ、故郷に帰って、後宮での事など忘れて、穏やかに過ごしたい。
叶わぬ願いを誰に告げる事も出来ずに、静麗は一人愁嘆した。
静麗がこの先、針の筵の様な後宮で、どうすればいいのかと悲嘆に暮れた、その時、遠くに小さな灯が見えた。
こんな夜更けに静麗以外に外に出ている人が居るのかと不思議に思い、長椅子から腰を上げると、灯の方を良く見ようと歩を進めた。
しかし、数歩進んだところで壁に当ったようにその足を止めた。
―――違う。……あれは、側室達なんかじゃない。あれは―――
静麗の見つめる先には、官吏が二人提燈を持ち、その後ろに近衛武官が四人続いている。その中央では、男性達が豪奢な彫刻が彫られた輿を掲げ持っていた。
―――あれは、皇帝陛下の輿だ……
輿の上には、夜目にも美しい上衣を羽織った皇帝陛下が前を見据えたまま輿に揺られていた。
提燈の灯りに仄かに浮かび上がる美しい面立ちの皇帝陛下。
その幻想的な光景を静麗は茫然として見ていた。
そのまま、皇帝陛下一行は静麗に気付くことなく、その先にあった宮の門の中へと静かに消えていった。
―――……皇帝陛下の、お渡り―――?
茫然と見送っていた静麗は、ぼんやりとそう考えると、既に宮の中へと消えた皇帝陛下を探す様に周りを見渡したが、其処には当然誰も居ない。
「……浩然……?」
宮の中では殿舎を賜った皇帝陛下の側室が、今宵の皇帝陛下との夜伽の為に待ち構えている筈だ。
―――では、浩然は今からこの宮に住む側室を…………
突然静麗の心の中に嵐の様な感情が沸き起こった。
―――あああああぁ!! 嫌だ、もう嫌だ! こんな所!! もう耐えられないっ。今すぐに、後宮から出て雅安へ帰るのよっ!!!!
静麗はその場で踵を返すと、月長殿には戻らずに、美しい襦裙姿のまま駆け出した。
静麗の肩から掛けた長く薄い領巾がその勢いに煽られ、大きくはためき、後ろへと飛ばされていった。
それに気付くことも無く、静麗は後宮の裏門だけを目指して只管に駆け続けた。
静麗が唯一自慢できる美しい黒髪も、なりふり構わずに走る為に結っていた一部が乱れて酷い有様だった。
静麗は誰にも見つかることなく、吊灯籠の柔らかい光が照らす回廊を走り抜け、幾つもの宮の前を通り過ぎ、誰も居ない石畳の上を一人駆けて行く。
途中何度か夜警中の武官を見かけたが、その度に隠れたり方向を変えながら、一心に後宮の外へと続く裏門だけを目指して走り続けた。
静麗の息遣いが激しくなり、足が縺れそうになった時、前方に小さく、目指す後宮の裏門が見えて、静麗の口元に笑みが浮かんだ。
皇帝陛下即位の儀式の日、夫に会う為に後宮を抜け出そうと訪れた其の場所は、今は暗闇に包まれ、門はピタリと閉じられていた。
静麗が笑顔を浮かべたまま其方に向かい、ふらつく足を更に踏み出そうとしたその時、突然後ろから静麗の薄い肩が強い力で掴まれた。




