九. 虐遇
静麗の心が嫉妬と憎しみの想いで少しずつ麻痺していくような日々の中、月長殿から少し離れた殿舎の一つに異変があった。
静麗の住む月長殿からは、其れなりの距離がある殿舎だが、流石に側室が入宮してきた事は察することが出来た。
いい人であれば良いと願っていた静麗達だが、今日、その新しく入った側室と、月長殿からその殿舎へと続く小路で遭遇を果たした。
侍女を三人引き連れた側室は、ちらりと静麗を一瞥した。
ほんの一瞬の事だが、静麗は自分が値踏みされたことを敏感に感じ取った。
側室に比べて平凡な容姿の上、身に着けている衣装や装飾品も数段品質が落ちるものだ。
それを見て取った側室は口角を引き上げて、どこか優越感を伴った笑顔で静麗に挨拶をよこした。
静麗はぎこちない笑顔でそれに応えた。
「私は先日、彼方の殿舎を賜った卓貴人ですわ。貴女も、側室なのでしょう? この辺りの殿舎にお住まいなのかしら」
側室はくるりと周りに視線を飛ばした。
「はい。私は彼方の 橄欖宮 月長殿に住んでおります。羅…………蒋 静麗と申します」
静麗の挨拶を聞いた側室は、急に目を吊り上げて静麗を睨み付けた。
「まあ! では、お前が陛下に付き纏い、後宮に居座っているという平民なのね! 陛下や皇后娘娘がお優しいからといって、なんて浅ましい! 此処はお前のような平民が居てよい場所ではないわ。出ておゆき!」
そう叫ぶと、側室は静麗の肩を持っていた扇で突き飛ばした。
突然の側室の豹変に驚いて、静麗は避けることも出来ずに、その場で倒れてしまう。
「静麗様!」
後ろに控えていた芽衣が慌てて静麗に駆け寄ってきて、抱き起こしてくれる。
地面に倒れこんで汚れた静麗と、膝を突いて助け起こそうとしている芽衣を見た側室と侍女達は、扇を広げてくすくすと二人の憐れな姿を嘲笑った。
「立場も弁えずに、何時までも図々しく居座るから悪いのよ」
自分の優位を感じた側室は、静麗に対して居丈高に振る舞った。
その時、側室は足元に転がってきた静麗の髪飾りに気付いた。
倒れた拍子に外れて、側室の足元まで飛んできたのだ。
側室が着けている簪よりも遥かに貧相なその髪飾りを見た側室は、口元を歪めて嫌な笑いを浮かべた。
「あら、こんな所に塵が落ちているわ。目障りだから、踏みつぶしてあげましょう」
側室がそう言って、優雅に裾を持ち上げて、美しい沓を履いた足を髪飾りの上に持っていったのを見た静麗は、とっさに髪飾りの上に手を伸ばしてしまった。
勢い良く振り下ろした側室の沓が、髪飾りを庇った静麗の手を踏みつける。
「痛いっ!」
沓と硬質な髪飾りの間に挟まれた手に鋭い痛みを感じた静麗は悲鳴を上げる。
その大きな悲鳴と、静麗の取った行動に驚いた側室は、よろけて後ろに下がってしまう。
「静麗様っ! あぁ、なんてこと。手を見せて下さいませ」
一瞬の出来事で、対応出来なかった芽衣が蒼褪めた顔で、静麗の手に顔を近づける。
固い金属と玉で出来ていた髪飾りの上に掌を乗せて、その上から固い沓底で踏まれた為に、静麗の掌は傷つき血を流していた。
「御側室方! 其処で、何をしているのですか」
芽衣や側室が、血を流す静麗の掌に動揺していると、鋭くも冷静な声が後ろから掛かった。
振り返ると、少し息を弾ませた郭 伝雲が近づいてくるのが見えた。
「あぁ、郭様! 静麗様がお怪我をっ、血が、……掌から血が出ています」
泣きそうな顔で芽衣が伝雲に訴えると、伝雲は直ぐに静麗の横に片膝を突くと、静麗の手をそっと取り、傷口を確かめた。
眉を寄せて怪我の状態を見ている伝雲に、側室達はそろり、そろりと後ずさっていた。
それに気付き、顔を上げて側室達を厳しい目で見る伝雲。
「これは、一体どういう事か、ご説明願えますか」
低い声で問われた側室はびくりと身体を震わせたが、気丈にも伝雲を睨み付けた。
「そ、その平民は、自分で転んだのよ。私は関係ないわ。……それに、陛下の側室である貴族の私に対して、無礼な態度を取ったのよ。だから、天罰が当たったのよ!」
側室の言い様に伝雲の切れ長な目が、すっと眇められた。
「―――ほぉ。貴女様に無礼を働くと、天罰が下るのですか。―――この寧波で天の使いを名乗れるのは、天子である皇帝陛下のみと考えておりましたが、違ったのでしょうか?」
伝雲の冷静な正論に、言葉を詰まらせる側室。
「な、何よ! 武官の分際で、陛下の妻である私に意見しようとでも、いうつもり? お前のような無礼な武官を辞めさせることなど、私には簡単に出来るのですからね!」
悔しまぎれに言い放った側室の言葉に、周りに居た侍女達は蒼褪め、側室の袖を引き、首を激しく横に振る。
「何よ? 私が後宮で酷い扱いを受けたことをお父様にお伝えすれば、この平民も、武官もどうとでもできるでしょう?」
訝しんで侍女に言い放つが、侍女が耳元に口を寄せて何かを伝えると、みるみるその顔色が悪くなっていく。
「貴四品位?……まさか、そんな……」
側室の口から小さな呟きが漏れた。
恐る恐る伝雲を振り返る、蒼褪めた顔色の側室の姿に、静麗は虚しい気持ちが沸き起こった。
この側室も、侍女達も……後宮に関わるほとんどの者達の基準は、その者の人格などでは無く、貴族としての地位の高さなのだろう。
芽衣や、伝雲の様に、静麗の人格を認めて尊重してくれる人の方が、この後宮では珍しいのだ。
「あ、あの……私、」
側室が伝雲に何か言い訳をしようとしているが、伝雲の鋭い眼差しに萎縮し、言葉を続けることが出来ない。
「御側室。後宮での諍いは禁じられております。今回の事は後宮の安全を預かる武官として、報告させて頂きます。宜しいですね」
側室は小さく顔を横に振り、少しずつ後ろに下がって行く。
「わ、私は、何もしていないわ。その平民が勝手に転んで怪我したのよ。わたしは関係ない!」
そう叫ぶと、侍女達を置き去りにして、側室は走り去った。
残された侍女達は、此方を気にしながらも、自分達が仕える主である側室の後を追って、来た道を戻って行った。
それを厳しい目で見送った伝雲は、静麗に視線を向けると、眼差しを和らげて優しく微笑んだ。
「蒋貴人。月長殿に戻り、傷の手当てをしましょう。芽衣殿も、大丈夫ですか?」
声を掛けられた芽衣は、はっとした顔で伝雲を仰ぎ見ると、慌てて深く頭を下げた。
「郭様。ありがとうございました。私だけでは、あの御側室を退けることは出来ませんでした。……でも、静麗様……」
芽衣は顔を顰めて静麗の傷ついた手を見つめた。
「何故、あのような危ない事をなさるのですか。私、静麗様が傷つく姿など、見たくありませんわ」
「心配かけてごめんなさい。……でも、この髪飾りは、壊されたくなかったの。……これは、芽衣が私に贈ってくれた、大切な物なのよ」
静麗が庇った為に、土で少し汚れてはいるが、無傷の髪飾りを嬉しそうに見る静麗。
芽衣が静麗の誕生日に贈ってくれた、静麗の大切な髪飾り。
「静麗様。……お気持ちは嬉しいですわ。でも、今後は二度とこのような事はなさらないで下さい。私には、その様な品物よりも、静麗様の方が大切なのですから」
「うん。ごめんなさい、芽衣。とっさに身体が動いてしまったの。でも、今後は気をつけるわ」
二人のやり取りを穏やかな眼で見ていた伝雲が、芽衣に声を掛ける。
「芽衣殿。もう、そのあたりで。月長殿に戻り、手当を致しましょう。幸い、傷は小さいので、痕も残らない事でしょう」
「はい、郭様。……参りましょう、静麗様」
芽衣と伝雲は、静麗を抱き起こして、衣装についた土を払うと、三人で月長殿を目指して歩きだした。