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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第四章

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二. 一歩

 


 静麗ジンリーが側室として貴人の位を賜ってからも、暮らしぶりは何一つ変わることが無かった。

 誰かが月長殿に訪ねてくることも無く、衣装が華やかになるわけでも無い。

 相変わらず後宮の最奥にある橄欖宮 月長殿で、芽衣ヤーイーと二人で慎ましく過ごしていた。




 女官長に故郷に帰りたいと直訴しに行ったあの日から、静麗は月長殿がある橄欖宮の敷地の外に出ることは一度も無かった。

 また後宮内のどこかで、皇帝陛下と側室達の逢瀬を見てしまうことを恐れていたからだ。

 静麗の愛しい夫であった浩然が、他の女性達を妻として遇している姿は、静麗の心を酷く痛めつけた。

 あの時の衝撃を忘れることは出来ないだろうし、二度と味わいたくは無い。


 だが、静麗の意に反してではあるが、皇帝陛下の側室となったからには、後宮から出ることは叶わなくなってしまった。

 一生をこの後宮で過ごすことになるのかもしれないと、静麗は途方に暮れた。

 そうして、このままではいけないと何度か宮の門前までは行くのだが、どうしても門を超える事は出来なかった。

 また皇帝陛下と他の女性が戯れているのを見かけることがあるかもしれない。

 侍女達の、皇帝陛下の後宮での噂話を聞くかもしれない。

 そう思うと、足がすくんで動けなくなった。


 門の前で外を眺めていると、何度かグゥォ 伝雲ユンユンが警護をしている姿を見かけた。

 相変わらず、凛々しく美しいなとぼんやりとそれを見送った。






 その日も悄然として、越えることが出来なかった門前から月長殿に戻った静麗は、居間に有る長椅子に横になると、ぼおっと卓の上の花を眺めた。

 芽衣が少しでも静麗の慰めになればと、飾ってくれた鮮やかな花々。

 その花弁を手で弄っていると、芽衣が居間へと入って来た。


「静麗様。今日は刺繍でもなさいませんか? 良い糸が手に入ったのです」


 にこやかに笑顔を浮かべながら近づいて来た芽衣の手には、裁縫箱が下げられていた。


 そういえば、後宮に来てからは一度も針を手にしていない。

 あれ程好きだった刺繍の事も思い出すことは無かった。

 芽衣の持つ裁縫箱を見た静麗には、久しぶりに何かを作りたいという気持ちが沸き起こった。


「……うん。やりたいわ」


 静麗が積極的な返事をしたことに、芽衣は少し目を瞬かせて、次いで嬉しそうに笑った。


 静麗と芽衣は同じ卓に着くと、それぞれが布を手に取った。

 芽衣が手にしているのは卓に敷く為の大きな布だ。

 見ると、もう既に半分に刺繍が施されている。

 静麗は迷って、久しぶりだからと小さな手巾に刺繍をすることに決めた。



 午後の暖かな日差しの中を心地よい沈黙が支配する。

 静麗は丁寧に針を刺しながら、故郷で母と一緒に刺繍をしたことや、父と買い物に行ったことを思い出した。

 何時もなら、故郷の雅安ヤーアンの事を思い浮かべるだけで涙が浮かんでくるのだが、芽衣と過ごすこの居間は柔らかな雰囲気に包まれており、静麗は久しぶりに静かな心で故郷を思い返すことが出来た。





 ◇◇◇





 芽衣と刺繍を共にした午後から、静麗の心は少しずつ落ちつきを取り戻していった。

 そうして、幾日かが過ぎると、僅かだが静麗本来の明るさも戻ってきた。

 芽衣はそんな静麗の微かな様子の変化にも安堵し、喜んだ。



 静麗が側室となってしまった以上、もう後宮から出ることは不可能に近い。

 皇帝陛下が崩御されるか、静麗が何か罪を犯して後宮を追放されるか、それぐらいしかこの後宮から側室が外へ出ることは出来なかった。

 それを考えると、一生をこの小さな宮で閉じこもって過ごすことなど現実的ではない。


 芽衣はいつまでも閉じこもっていては、身体に悪いと思いつつも、今の後宮を静麗に見せたく無いという思いもあり悩んでいた。

 それに、先日の官吏の様に静麗に良くない感情を持っている者もいることだろう。

 そんな人物を静麗に近づける訳にはいかない。

 芽衣は、静麗がこの先後宮で穏やかに過ごすために、一番良い道はどれだろうかと真剣に考えていた。

 静麗はそんな献身的な芽衣の様子に嬉しそうに笑い、散策に行きたいと、自分から切り出した。





 ◇◇◇





 天気の良い日の午後、静麗と芽衣は月長殿を出て、橄欖宮の門の前まで来ていた。


「静麗様、本当に大丈夫ですか? ご無理をなさってはおりませんか」

「大丈夫よ。芽衣、ありがとう。いつまでも閉じこもっている訳にもいかないもの。少しずつでも、後宮に慣れていかないと。私はここで一生を過ごすかもしれないのでしょう?」

「静麗様………芽衣も一緒ですわ! ずっと静麗様のお側におります!!」

「芽衣……ありがとう」





 ―――でもね、芽衣……浩然ハオランも、そう言って誓ってくれたのよ?




 言葉に出来ない苦い思いを飲みこんで、静麗は小さく笑った。







「でも、芽衣。貴女そうしたら、本当に結婚出来なくなってしまうわよ。侍女は側室とは違い、後宮から出ることも許されているのでしょう?」

「まぁ! 私は結婚の予定など無いからこそ、後宮で侍女となる道を選んだのですわ。だから、大丈夫ですわ」

「それって、大丈夫と言っていいのかしら?」


 静麗が首を傾げて考えると、芽衣も同じように首を傾げた。

 そして、顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。


 一人娘であった静麗は、姉がいたらこんな感じなのかしらと、擽ったい思いを感じた。


「あ、でも、芽衣。貴女、前に言っていた近衛武官のグゥォ様という方の事は」

「静麗様!? 何を、……何故ここで郭様の御名が出るのですか?!」

「え? だって、以前…」

郭家わがやが何か?」


 其処そこに割り込むような声が聞こえ、静麗と芽衣は同時に橄欖宮の門を振り返った。

 門の外から此方を覗き込むように見ていたのは、この辺り一帯の警備をしていた郭 伝雲であった。


「あのね伝雲、今芽衣の話を」

「あぁぁ、何でも御座いませんわ! 郭様、どうぞお気になさらずに!」


 芽衣が慌てた様に静麗の言葉を遮る。

 静麗はおかしくて、後ろを向いてくすくすと笑った。

 芽衣は恨めしそうにそんな静麗を見ていた。


 伝雲は首を傾げながらも、そうですかと頷いた。


「しかし、お二人は大層仲が宜しいですね」


 伝雲の言葉に嬉しそうに静麗は頷く。


「はい。私は芽衣が大好きなの。これから一緒に散策に出かけるのよ」


 それを聞いた伝雲は優しく頷くと、その場で片膝をついた。


「では、御側室となられた蒋様。私も散策の供をすることをお許し頂けますか?」


 そう言って、まるで麗しい皇子殿下の様に微笑んだ。

 静麗と芽衣はその微笑みに、女性と分かっていても頬が赤くなるのを止められなかった。



 そこでふと、静麗は伝雲が側室となったことを寿ことほがなかった事に気付いた。

 官吏や、女官長は慇懃に言祝ことほいだが、実際は忌々しく思っているのが伝わってきていた。

 だが、今、目の前で片膝をついている伝雲の目には、平民である静麗を侮るでも、侮蔑するでもなく、ただ少し揶揄からかう様な優しい光だけがあった。


 静麗は嬉しくなり、伝雲に手を差し伸べると頷いた。


「えぇ、一緒に散歩に行きましょう」






 その日から、度々静麗と芽衣に付き従うように歩く伝雲の姿も見られるようになった。







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