一. 侮蔑
朝廷の高級官吏である黎は、静麗の元へ朝廷からの貴人位を授けるという趣旨が書かれた巻物を残して去って行った。
雅安へ帰れるのではないかと、僅かな希望を持った静麗を絶望に突き落として。
朝廷が―――皇帝陛下が何を思って自分の様な平民に、貴族しかなれないという、皇帝陛下の側室である貴人位を授けたのか。
邪魔者が自分から帰ると言っているのに、何故、側室にしてまで引き留めるのか、静麗には理解出来なかった。
―――……もしかして、………浩然は、…まだ私の事を、………好きで居てくれているの……?
一瞬馬鹿な考えが静麗の脳裏を過ぎったが、そんな筈は無いと頭を振った。
もしまだ少しでも愛してくれているのなら、後宮に放置したまま、一度も会いに来ない筈は無い。
後宮で見た皇帝陛下と側室の逢瀬の様子を思い出してしまい、静麗は苦い思いを飲み込んだ。
静麗は混乱と絶望を感じたまま、その日を過ごした。
◇◇◇
「静麗様、あの、また朝廷から使者が参っております」
翌日の午後、芽衣が戸惑いながら静麗のいる居間へと入って来た。
「え? 女官長と、昨日の黎様?」
「いいえ。女官長様は来られておりません。それに、初めて見る官吏の男性でした。お通ししても大丈夫ですか」
静麗は渋面になり、芽衣を見た。
貴人位を授けられたとはいえ、静麗は平民のままで、貴族になった訳ではない。
朝廷からの使者である高級官吏を妨げることなど出来る筈も無い。
「ええ。追い返すわけにもいかないし、お通しして貰える?」
「はい」
心配そうにしながらも、芽衣は官吏を案内する為に外に向かった。
暫くすると小さな箱を抱えた男性が一人、静麗の待つ居間へと入って来る。
居間に入ってすぐに跪いた官吏は、静麗に対して額ずいた。
昨日、皇帝陛下の側室の位を賜ったと言っても、静麗は今までと変わらない平民の娘だ。
官吏の態度にどう対応していいのか分からずに、おろおろとしてしまう。
「静麗様。よい、とお声をお掛けください」
芽衣が静麗に助け船を出す。
静麗は居心地悪そうに椅子の上で身体を揺すりながら、小さくよい、と言った。
平民の自分が朝廷の高級官吏に対して、こんな対応をして本当に良いのだろうか、後から罰せられたりはしないだろうかと、不安な気持ちが沸き起こる。
官吏は素早く立ち上がると、持ってきた小さな箱を静麗の目の前に差し出した。
「えっと、何ですか?これ」
静麗は戸惑って男性を見た。
「蒋貴人様の禄で御座います」
「ろく…?」
首を傾げる静麗に、芽衣が小声で教えてくれる。
「側室様方に対する俸給の様なものですわ」
「え? でも、私何もしていないのに俸給を頂けるなんておかしいわ」
静麗は困惑して芽衣を見た。
自分は後宮の居候で、邪魔者だという思いでずっと過ごして来た為、俸給を貰えると立場だと聞いても違和感しかない。
「静麗様。ご側室となられた静麗様に禄が奉じられるのは当たり前の事で、何もおかしくはありませんわ」
芽衣が複雑な表情で静麗に説明をしてくれた。
静麗が側室の地位など望んでいなかった事を一番知っている芽衣は、こうして朝廷が静麗を側室として扱おうとしている事に漠然とした不安を感じた。
受け取るべきか迷っている静麗に、官吏は芽衣の顔をちらりと見た。
芽衣はふぅ、と息を吐くと官吏に向き直る。
「官吏様。此方でお受け取りさせて頂きますわ」
官吏の手から禄を受け取った芽衣は、静麗が座る椅子の前にある円卓へと小箱を置き、箱に結ばれていた紐を解いた。
そして、蓋を開けて静麗の方へ向けようとして、驚きに目を開いた。
「官吏様、これは、……これは貴人位を賜った側室である、静麗様への禄で間違いないのですか」
芽衣の常にないその様子に、箱の中を覗き込んだ静麗は首を傾げた。
其処には、静麗からすれば大金と呼べる貨幣が入っており、他にも玉が数個、美しい布に包まれていた。
「芽衣? どうかしたの」
静麗が不思議そうに芽衣と官吏を見比べる。
厄介者の平民の自分に対して、衣食住を提供しているどころか、これ程の大金を渡すなど、流石に大国は凄いと感心していた静麗には、芽衣が何に驚愕したのか分からない。
「これでは、高級侍女の俸給と変わらないではないですか! 仮にも皇帝陛下のご側室となられたお方に奉じる禄が、たった、これだけなどとは」
「これだけ?」
官吏は芽衣の言葉に眉を上げた。
「後宮に入られて二月も経つのに、未だにお渡りの無い御側室様で御座います。此れでも十分かと」
「でも、これは、余りにも」
憤り、官吏を睨む芽衣に対し、官吏は薄く嗤うと、高圧的に芽衣に言い放った。
「先の疫病で国庫にも余裕があるわけではないのだ。貰えるだけありがたいと思えぬのか」
そんな言葉に芽衣は悔しそうに唇を噛む。
静麗は震える芽衣の袖を小さく引くと、首を横に振った。
側室の禄として、これが常とは違うのだという事が芽衣の態度から分かったが、静麗には正直どうでも良かった。
それよりも、これ以上官吏に対して芽衣が反論すれば、静麗だけでは無く芽衣にもお咎めがあるかもしれない。
其れだけは阻止しなければと、椅子から立ち上がると官吏に対して頭を下げる。
「官吏様。有り難く、頂戴いたします」
側室が、高級とはいえたかが官吏に対して、頭を下げる事など有ってはならないのだが、今、この後宮での静麗の立場を考えると仕方がないのだろう。
後ろ盾も何も無い、ただの役立たずの平民。
皇帝陛下のご寵愛があれば、また話は変わるのかもしれないが、皇帝陛下となった夫は、静麗の元へは一度も通っていない。
即位の儀式の七日程前に、ほんの短時間、顔を合わせたきりだ。
これでは、朝廷の官吏にも後宮に居る全ての人にも、静麗が侮られるのは仕方がない。
頭を下げる静麗に対して、ふんと鼻息を吐いた官吏はその場でもう一度跪くと、側室に対して退出の挨拶を慇懃に行い、立ち上がった。
そして、居間を出るために静麗達に背を向けた時、忌々しそうに呟いた。
「陛下に厚かましくも付きまとう平民女が」
「なっ!」
芽衣がそれに反論の声を上げようとしたが、静麗がその腕を強く掴み引き留める。
そして、激しく首を左右に振った。
その間に官吏は居間を出ていってしまった。
「静麗様、あれは、あの態度はあんまりですわ。私、女官長様へご報告いたします。ご側室となられた静麗様に対するあの態度。目に余ります」
「芽衣、いいのよ。しょうがないもの。きっと芽衣以外の人は皆私の事をあんな風に思っているのね」
静麗は後宮内での自分の立場というものを、まざまざと思い知らされ、疲れた様に笑った。
―――私の望みは雅安に帰る事。でも、後宮では皆が皇帝陛下の寵愛を欲しているから、私もそうだと思われているのかも……
静麗は暗い思いに捕らわれ、遣る瀬無い思いを抱いて月長殿の高い天井を仰ぎ見た。




