二. 婚儀
婚儀の場となったのは、浩然が祖父母と住む屋敷だ。
雅安の地を預かる領主の屋敷からも近い一等地に立つが、幾分古めかしく、傷みも目立ってきていた。
羅家は嘗ては、雅安で一番の商家だったが、年老いた夫婦がこの先過ごす程度の貯えもあり、孫の浩然も蒋家の一人娘である静麗の家を継ぐことが決まっていた為、何の憂いも無くなり、随分前から商売からは手を引いていた。
昼前、祖父母の屋敷の大広間に、静麗と浩然の親族達が集まり、婚儀が始まった。
大広間の長卓の上には蒋家が持ち込んだ美しい布が掛けられ、その上に親族達が持ち寄った豪華な食事が並べられ、庭から摘んできた花をあちこちに飾り、素朴だが華やかな場を作っていた。
食事と歓談を楽しみつつ、普段は中々会うことのない親族との交流を皆が楽しむ。
広間の最奥に設けられた新郎新婦の席に、宴用の華やかな衣装を身に纏った年若い娘が一人駆けてきた。
「静麗、おめでとう!でも、本当に、あの羅 浩然と結婚したのね」
「あの……って?」
比較的年の近い従姉妹の言葉に静麗は首を傾げる。
「だって、町で浩然の顔を知らない女の子なんていないわ。きっと今頃あちこちで悲鳴が上がっているわ!」
「あら、まるで、浩然がいいのは顔だけみたいな言い方は、やめて欲しいわ」
静麗はつんと顔を上げ、従姉妹に言い放った。
「浩然は顔よりも、誠実なその性格が素晴らしいのよ。誰よりも私を大事にして、守ってくれるわ」
「うわぁ、ご馳走様。新妻の余裕ね」
二人は顔を見合わせるとくすくすと微笑み合った。
そこに新たに二人、三人と集まりだし、静麗は皆から祝福の言葉を掛けられ、はにかみながらも幸せを噛みしめ、会話を楽しむ。
「静麗、少しいいか?」
親戚達が座る席まで、挨拶に出向いていた浩然が、庭に通じる出入口の扉の前から静麗を呼ぶ。
静麗は直ぐに立ち上がり、花嫁衣装の領巾がひっかからない様に気を付けながら、歓談をしている人達の間をすり抜け、浩然の前まで足早に歩いて行く。
「どうしたの」
「うん。裏庭に行かないか?」
静麗はそれだけで、浩然の言いたいことが分かった。
「そうね。御義母様にご挨拶をしなければ」
浩然は嬉しそうに頷くと、静麗の手を引き、賑わう大広間から外に出ていった。
屋敷の漆喰の壁伝いに二人で手を繋ぎ歩く。
浩然の大きな手に包まれた自分の小さな手を見て、静麗は顔を綻ばせた。
小さな頃から何度も繋いできた、暖かな浩然の手。
―――これからは夫婦として、ずっと二人で手を取り合って、人生を共に歩んでいくのね
浩然の鼻筋の通った綺麗な横顔を見上げながら、静麗は浩然の妻となった自分を感慨深く思った。
日当たりの良い裏庭に着くと、小さな花々を横目に真っ直ぐに目的の場所を目指す。
そこには、綺麗に手入れをされていることが一目で分かる、まだ新しい墓石があった。
浩然と静麗は墓前で膝をつき、深く一礼をする。
「母さん。今日、俺達は婚儀を上げたよ。これで、俺達は夫婦となったんだ。……母さんがいたら、なんて言ったかな。静麗のことをとても気に入っていたから、きっと喜んでくれただろうけど」
浩然の言葉に、静麗は在りし日の義母の事を思い出す。
浩然の母はとても美しい女性で、浩然の顔立ちが良いのは、母親の血が濃いのだろうとずっと思ってきた。
義母は美しいが、物をはっきりと言う芯の強い女性でもあった。
どちらかというと大人しい静麗は、美しく、毅然とした態度の浩然の母親を憧れの眼で見ていた。
静麗が十一歳になった頃、病であっけなく亡くなった時は、浩然よりも激しく泣いた記憶がある。
―――御義母様。今日より浩然の妻となりました。貴方様の娘でもあります。これからは、浩然と共に歩んで参ります。どうか、私達を良き方へお導き下さい
静麗は目を閉じ、心の中で尊敬する女性に静かに語り掛けた。
そして、静かに目を開けると、隣にいる夫となった浩然を見つめる。
浩然は暫し、墓石を見つめた後に立ち上がり、静麗に手を差し伸べる。
「行こう。静麗」
「ええ。浩然」
静麗は浩然の手に己の手を重ねて立ち上がり、前を向いた。
二人は手を繋いだまま、来た道をゆっくりと戻っていった。
◇◇◇
婚儀を無事に終え、片づけも終えると、親戚達は皆帰路につき、屋敷には静麗達の他に、静麗の両親と浩然の祖父母、それに羅家の住込みの使用人が数人のみとなった。
静麗達は、婚儀の席での衣装から平服に着替え、六人でお茶を楽しみ、今日の婚儀の事や、花嫁衣裳の事などを楽しく話しながら、夕刻には夕餉も一緒に取った。
静麗の両親が帰る時刻となり、静麗と浩然は、日が落ち暗くなった屋敷の門戸の前まで見送りに出た。
「御父さん、御母さん。今日はありがとうございました」
静麗は二人に深々と頭を下げ、お礼を言う。
浩然はそんな静麗の隣に立ち、同じように頭を下げる。
「静麗。では、私達は帰るが、しっかり浩然を支えて羅家に尽くすのだぞ」
「静麗。今日より貴女は羅家の嫁です。勤めを果たして、二人で幸せにおなりなさい」
父と母は、成人を迎えたばかりの娘に、優しく言い聞かせると、浩然に娘を託し、羅家を後にした。
直ぐ側に実家があり、両親が住んでいるとはいえ、嫁に出た静麗は今日より羅家で暮らすことになる。
両親が帰ったことで急に不安と寂しさが募り、涙が浮かんでくる。
「静麗。大丈夫か?」
戸を閉め、振り返った浩然は静麗の様子に心配そうに眉を寄せた。
「浩然……」
静麗は浩然の胸に顔を埋め、鼻を啜る。
浩然は静麗の髪を優しく撫でて慰めた。
幼い頃から静麗が泣くと、浩然は泣き止むまでずっと髪を撫で続けてくれた。
浩然の母が亡くなった時も、激しく泣く幼い静麗を撫でながら、浩然も涙を流していた。
いつもと同じ暖かな掌でゆっくりと髪や背中を撫でられ、落ち着きを取り戻すと、静麗は顔を上げ、浩然を見上げた。
「浩然、ありがとう。もう、大丈夫。私は、浩然の妻になったんだもの。泣き虫は直さないとね」
「静麗はそのままでいいよ。泣いて欲しくはないけど、無理に我慢することもない。俺が側に居る時はいつでも泣けばいいよ。泣き止むまでずっと付いてるから」
浩然の優しい言葉に、静麗は照れた様に小さく笑う。
「浩然は私を甘やかしすぎだと思うわ。私も一人前の女性なんだから。浩然の御母様の様な人になれる様に、頑張るつもりよ」
浩然はそれに、苦笑いする。
「母さんのようにか?それは、ちょっと考え直して欲しいかな。静麗が母さんの様になったら、俺は尻に敷かれるしかなくなるよ」
「あら、素敵。ぜひ浩然を敷いてみたいわ。そうしたら、絶対に浮気なんて出来ないでしょう?」
浩然は片眉を上げ、不本意だという顔をする。
「俺が、静麗以外の女に惚れる筈が無いだろう?ずっと、静麗だけを愛してきたんだぞ」
浩然の直接的な言葉に顔が熱くなり俯くと、もう一度浩然の胸に顔を埋めた。
浩然は静麗を抱き締めたまま、空を見上げた。
「静麗、見て。今日は満月だ」
浩然の言葉に顔を上げ、夜空を見上げる。
すっかり暗くなった空からは、青みを帯びた銀色に輝く美しい月が、その透明感のある光を冴え冴えと降り注いでいた。
―――ああ、なんて綺麗な月
「……浩然。私、きっと、今日のこの月を一生忘れないわ」
「ああ。……そうだな」