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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第三章

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十. 貴人位

 


 静麗ジンリーの誕生日から五日後、月長殿の裏庭にある小さな池の畔で、静麗がぼんやりと晴れた空を見上げていると、典雅な楽の音が何処どこからともなく、微かに聞こえてきた。

 聞いたことも無いような妙なる調べに、静麗は目を閉じて聞き惚れた。



「静麗様、日差しがきつくなって参りましたわ。外に出られるなら傘をお使いください」


 芽衣が傘を持って月長殿から出て来る。

 振り返って小さく微笑むと、静麗は空に顔を向けて芽衣ヤーイーに尋ねた。


「ええ、分かったわ。……ねぇ、芽衣。この音は何なの? 後宮で何か催しでもしているのかしら」


 芽衣は音の聞こえる方へ顔を向けると、あぁ、と頷いた。


「本日は皇后娘娘の御生誕日の祝いの宴が、娘娘のお住まいの蝶貝宮にて開かれております」

「そう、……皇后娘娘の様な身分の高い方は、誕生日に宴を行うのね。音がこんなに遠い所まで響いてくるなんて、凄く規模の大きいものなのでしょう?…………皇帝陛下も、出席されているの?」


 聞いてから、静麗は後悔した。

 出来るだけ皇帝陛下や皇后娘娘、後宮の側室達の事には関わらないように、見ないようにと思っていても、どうしても気になってしまう。


「静麗様、……皇后娘娘は後宮の主です。宴には、後宮にお住まいの全ての側室様方がご出席されております。そして、皇帝陛下も、皇后娘娘だけは御正室として、丁重に扱わなければならないのです」

「そう、ごめんなさい。気にしないで」


 静麗は早口に言って踵を返すと、音から逃げるように足早に月長殿に戻って行った。

 芽衣もその後に続き歩き出すが、ふと振り返り蝶貝宮がある方へと顔を向けた。


 どうか、これ以上静麗様の御心を乱さないで下さいませ、と誰にともなく願った。





 ◇◇◇





 皇后娘娘の生誕日の宴が後宮で盛大に行われた翌日、月長殿には来客があった。

 久しぶりに見る女官長と、見知らぬ男性だ。


 芽衣に先導されて居間に入って来た二人に、静麗は立って出迎えると、丁寧に揖礼をした。

 其れに対して、女官長は一つ頷くが、男性は何の返礼も返さずに、勧められる前に椅子に腰を下ろした。


ジィァン様もお掛けになって下さい」


 女官長の言葉に、呆気に取られて男性を見ていた静麗は、男性の前の椅子に戸惑いながら腰かけた。

 女官長は男性の背後に立ったまま控えている。


 芽衣は二人の前にそっと茶を出すと、直ぐに入口の前に控えた。


「蒋様、此方こちらは朝廷で官吏をされているリィー殿です。本日は朝廷より蒋様にお話があり、こうして後宮までお越しくださいました」


 女官長の何時いつもの様に抑揚のない言葉に、静麗は黎と呼ばれた男性を見た。

 三十代程に見える、官吏としてはまだ若い男性だが、後宮に入ることが出来るという事は、高級官吏の一人なのだろう。

 以前見たイェンと同じ直裾袍を身に纏っているが、その背にある文様が少し違う。

 官吏の中でも、位は細かく分かれており、背の文様で区別がつくようになっていたが、静麗にはそんな知識は無く、黎がどのような地位に就いているのかも分からなかった。


 しかし、朝廷からの話という事は、やっと帰郷の許しが出たのだろうか。

 静麗は期待を込めて男性を見つめた。

 もう、一刻だってこんな所には居たくない。

 毎日、毎夜、この後宮で皇帝陛下となった夫が、何をしているのかを考える度に、静麗は悲しみと嫉妬でどうにかなってしまいそうだった。


 そんな静麗の視線をまるで感じていないかのように、黎は優雅な手つきで茶を飲むと、ゆっくりと視線を静麗に向けた。

 静麗はその瞳の中に、平民に対する差別意識を敏感に感じ取り、ぴくりと震えた。


「では、蒋 静麗殿」


 黎は勿体付けるようにゆっくりと口を開いた。


「朝廷からの決定を、其方そなたにお伝えいたしましょう」


 静麗はこくりと唾を飲みこんだ。

 心は既に、遥か遠くにある故郷、雅安ヤーアンに飛んでいた。

 早く両親や祖父母、友人に会いたい、あの長閑な田舎町に帰りたい。


 幼い頃から共に時を過ごして来た浩然から離れ、別れるという事は、きっと静麗には想像も出来ない程、耐え難い苦痛を与えるだろう。

 だが、芽衣しか頼る者も居ないこの後宮で、これ以上皇帝陛下となった夫と、後宮の女性達を見ることも、同じ程に、いや、それ以上に耐えられない筈だ。

 皇帝陛下から、離れたいと思う心と、離れたくないと思う心の狭間で静麗は不安定に揺れ動いていた。




 黎は徐に持参していた巻物を取り出すと、それを緩やかに広げ、静麗を見据えて厳かに告げた。



其方そなたは平民の身ではありますが、特例として、皇帝陛下の御側室である貴人の位を授ける事を、朝廷は決定致しました」



「…………ぇ……?」



 突然思っても居なかった事を告げられた静麗は、意味が分からずに、首を傾げて黎の顔を見つめた。


「本来なら、御側室の位の一つである貴人位は、貴六品から十五品の貴族の姫君しかなることは出来ません。陛下がお手を付けられた平民はあくまでも側女であり、御子を生んでも側室とは認められないのです。平民はあくまでも側女止まりという事ですな」

「側女……」


 静麗が蒼褪めて小さく呟くと、黎は一瞬不快そうに静麗に目を止めて、吐き捨てるように続けた。


「朝廷の、皇帝陛下の温情によくよく感謝をして、寧波ニンブォに尽くされるようになさいませ」


 黎はこの決定が納得いかないのか、嫌そうに言うと席から立ち上がった。

 静麗はそれを茫然と見上げた。


 そして黎はゆっくりと、椅子に座ったままの静麗の前まで来ると、その場で突然膝を突き、深く頭を下げた。

 その後ろに女官長も並び、同じように跪いた。




「蒋 静麗様、この度は皇帝陛下の御側室である、貴人の位を賜りましたこと、朝廷を代表致しましてお慶び申し上げます」

「お慶び申し上げます」


 黎と女官長の二人は、床に頭をつけて静麗に対して額づき、言祝ことほいだ。



 静麗はその二人の様子に恐怖を覚え、引き攣った顔で入口前に居る芽衣を見た。

 芽衣も驚愕の表情を浮かべて二人を見ているのを見た静麗は、芽衣は何も知らなかったのだと、心のどこかで安堵を覚えた。



 静麗と芽衣が見つめ合って固まっている間、静麗の前に拝跪した二人は、静麗が立つように促すまで、いつまでも頭を下げ続けた。








第三章 終


次回 挿話

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