八. 裏切
失意のまま、静麗は芽衣と共に女官長の部屋から退出した。
これで、静麗が後宮から出て、故郷へ帰れるという希望は遠のいた。
朝廷が何故静麗の帰郷を許さないのかは分からないが、どんなに辛くとも、平民の静麗には朝廷の決定に逆らうすべなど無かった。
自分の夫であった浩然が皇帝陛下となり、他の女性達と婚姻を結び、妻であったはずの自分には見向きもしないという事だけでも、耐え難い苦痛を感じているのに、子を成すのを、黙ってこの場所で見ていろなどとは、なんて残酷な事を言うのだろう。
静麗は絶望感に襲われて、俯き、ふらつく身体を芽衣に支えられている事にも気づけなかった。
銀星門を横目に、月長殿を目指して二人は寄り添って歩いて行く。
皇宮に近い為、後宮の最奥にある月長殿と違い、華やかな、まさに大国の後宮という風情の中を、行きと同じように目立たぬように歩く。
ふらふらとする身体を横から支えてくれていた芽衣が、急に足を止めて静麗の肩を押し、向きを変えようとした。
その急な動きにふと顔を上げて、横を向いた時、それが静麗の目に飛び込んできた。
――――――浩然……
即位の儀式の日から、ほぼ一月ぶりに見る夫の姿。
浩然は煌びやかな衣装を身に纏い、皇后娘娘ではない、別の美しい女性の肩を優しく抱いて、花が咲き乱れる庭園を楽しそうに歩いていた。
女性は皇帝陛下の腕にほっそりとした手を這わせる様にして、隣に寄り添っている。
豪華な衣装や装飾品を多数身に着けている事から、きっと数多くいる側室の中の一人なのだろう。
その後ろには多くの侍女や女官達が少し離れた場所で控えているが、色とりどりの衣装で埋め尽くされたその場は、大国の皇帝陛下の後宮に相応しい、華やかさに満ちていた。
そんな皇帝陛下と側室の、ある意味、後宮では当たり前の光景に、静麗の目が大きく見開かれた。
どれ程覚悟をしているつもりでも、実際に夫が、他の女性の肩を抱いて愛おしんでいる姿は、静麗には衝撃が強すぎた。
「浩然……」
ふらり、と皇帝陛下のいる方へ足を踏み出そうとした時、離れて皇帝陛下の護衛をしていた近衛武官が静麗達に気付き、きつい眼差しを送ってきた。
その鋭い目は、近寄るなとはっきり告げていた。
近衛武官のその目に射貫かれて、静麗の足は竦んでしまう。
そうしている間に、皇帝陛下と側室の女性は庭園の奥の四阿へと入って行き、その姿は見えなくなった。
「静麗様、彼方の道から帰りましょう?」
芽衣が、何時までも四阿から目を離せない静麗の視線を遮るようにして、その肩をそっと押して、向きを変えて歩くように促した。
芽衣に押されるまま、ふらふらと足を進める静麗に、芽衣は寄り添って支えてくれた。
歩き出した二人の後ろ、四阿の中からは女性の楽しそうな笑い声が微かに聞こえてきた。
即位の日から一月近く。
諦めてもいたし、覚悟もしていたつもりだった。
でも、本当は、心の何処かで、これは何かの間違いではないかと思っていた。
浩然は正義感が強く、誠実で優しい人だ。
だから、朝廷や皇城の人達に、皇族の存続が自分の肩にかかっていると懇願されて、絆されてしまったのではないか、だから、皇位を継ぐべき皇太子殿下を皇后娘娘や、側室達と儲けることを了承してしまったのではないか、それとも、何か他に自分が知らない理由があるのかもしれない。
それに、静麗と婚姻を結んだのは、ほんの数か月前だが、幼い頃からずっと一緒にいた静麗の事を、こんな風に放置するなんて、今までの浩然の態度からは考えられない。
朝廷の人間が、静麗に会いに来ようとする浩然の邪魔をしているのではないか、それとも、疫病の影響などで、皇帝陛下としての責務が忙しく、会いに来られないだけなのではないのか。
そんな事を心の片隅で考え、でも一方では、そんな自分に都合の良い話はあり得ないと分かっていながらも、儚い希望に縋り付く様に心の何処かに秘めていたが、今見た光景がそれらを全て打ち砕いた。
浩然は、皇家の存続を懇願されて、子を成すことだけを了承した訳でもなく、責務が忙しくて静麗に会いに来ることが出来なかった訳でもなかったのだ。
浩然の為にと新しく用意されたこの後宮で、身分高く、美しい姫君達を数多く娶り、それらに夢中になり、静麗の事など忘れた様に、側室達と戯れていたのだ。
夫の裏切りを直接目の当たりにして、静麗の心の片隅にあった淡い期待も砕け散った。
あの、後宮で再会した日に言ってくれた、愛しているという言葉も、絶世の美女である皇后娘娘や、多数の美しい姫君達を見たことで、覆ったのだろう。
静麗はふらつく足を動かし、前へ進もうとした。
―――何故、自分は今、こんな場所を歩いているのだろう。何故、浩然は、私の隣に居ないのだろう
月長殿へ通じる小路を芽衣に支えられながら、静麗の頭の中では同じ疑問が何度も何度も繰り返しよぎる。
「静麗様……」
心配そうに顔を覗き込んでくる芽衣に、静麗は視線を向けることが出来なかった。
芽衣の優しい目を見てしまうと、きっと涙を耐える事が出来ない。
こんな、皇帝陛下の側室達が数多くいる場所で、夫に捨てられた元妻として、無様に泣き叫ぶような真似はしたくない。
静麗は奥歯を噛みしめ、ぎゅっと眼を閉じた。
「………大丈夫。私は大丈夫よ、芽衣」
静麗は虚ろな声で、自分に言い聞かせる様に大丈夫と呟き続けた。




