五. 宥和
芽衣と一緒に食事を済ませた静麗は、疲れた様に椅子から立ち上がった。
「芽衣、少し休ませてもらってもいいかしら。昼餉も要らないから、少し眠るわ」
「静麗様……はい。ごゆっくりお休み下さいませ」
静麗は心配そうに見てくる芽衣に背を向けると、寝室に戻り、寝衣に着替えると倒れこむように寝台に身を伏せた。
故郷で使っていた物よりも、遥かに質の良い柔らかな枕に顔をうずめる。
昨夜から一睡も出来ずに朝を迎えていたのに、目が冴えて全く眠気が起こらない。
静麗は寝台に仰向けになり、天蓋にある、色が薄くなってきているが、美しい花の模様を目で追う。
その花の模様に被さる様に、皇帝陛下の煌びやかな衣装を身に纏った夫の姿と、その横に並ぶ美しい皇后娘娘の姿が浮かぶ。
―――浩然は既に皇帝陛下となってしまった……それも、多分、自分の意志で。……だから、私には何も言ってくれなかったのだろう。……私は、この先どうすればいいのかしら………
寧波では、同じ平民同士の中でも、其れなりに身分の差といったものがあった。
羅家などは、歴史もあり、裕福な家であったからこそ、冬梅は下級侍女として後宮に入ることも出来たのだ。
それも、領主の後押しがあったからこそだが。
だが、静麗の実家である蒋家は、雅安の中では裕福な方とはいえ、ただの平民でしかない。
皇帝陛下の側室となるどころか、下働きとしても後宮に入ることは難しいだろう。
―――それ以前に側室とか、私が浩然を、他の女性達と分かち合うなんて無理よ。耐えられない。絶対に出来ないわ
静麗は天蓋の花の模様に手を伸ばした。
―――でも、もう既に浩然は皇帝陛下として、他の女性を、それも貴族の中でも最も位の高い、貴一品の大貴族のお姫様を、正妻として迎え入れてしまった
仰向けに寝ている静麗の手は、どれ程伸ばしても天蓋の模様に触れる事は出来ない。
―――もう、私だけの夫では無いのね………
花の模様がぼやけて見えなくなった。
◇◇◇
夕刻、静麗は寝室から居間へと出て来た。
じっと、居間で静麗を待っていた芽衣は、ほっとした表情を浮かべて、静麗に椅子を勧めた。
「芽衣、ありがとう。……それと、ごめんなさい」
「静麗様?」
静麗は目の前に佇む芽衣の両手をそっと握った。
「芽衣は、私が後宮に来た日から、ずっと側に居て支えてくれた。……確かに、私に黙っていたことがあったけど、でも、芽衣がそうしたくて、したわけじゃないのは解っているの。昨日も、酷い言葉を貴女に言ったわ。……でも、それでも貴女はまだ私の側に居てくれている。きっと、今私がこうして居られるのは、芽衣のお陰なの」
「静麗様……私を、許して頂けるのですか?」
芽衣の眼に涙が浮かぶ。
「えぇ。……後宮や朝廷の事は私には分からないけれど、芽衣の事は、この一月ずっと一緒にいたもの。少しは解っているつもりよ。貴女は、私の事を本当に大切にして、心配してくれていた。……其れなのに、私は自分の感情を抑えられずに、貴女を傷つける言葉を言ったわ。ごめんなさい、芽衣」
芽衣は激しく首を左右に振る。
「いいえ、いいえ静麗様。貴女様が謝る事など、何一つないのです。貴女にその様な言葉を言わせたのは、私達なのです!……私は、自分の身が、家族が大切で、静麗様が傷つくのを解っていながら、何も行動を起こしませんでした。私は、」
「芽衣、もういいの。私は貴女が大好きよ」
「静、麗様……」
静麗は椅子から立ち上がると、涙を流す芽衣の身体を抱き締めた。
芽衣も小柄な静麗の身体に両手を回して、きつく抱き締め返した。
二人は、皇后娘娘という後宮の主が誕生して、慶びに包まれ、華やかになった後宮の最奥、誰も訪れることの無い寂れた殿舎の中で、涙を流しながら静かに抱き締め合った。
◇◇◇
「芽衣、お願いがあるの。聞いてもらえる?」
「何でしょう。私に出来る事なら何でも」
静麗は小さく笑みを浮かべると、ありがとうと言った。
「私、後宮を出て、故郷の雅安へ帰ろうと思うの」
「静麗様……」
芽衣は俯き、唇を噛みしめた。
「本当なら、皇子殿下が即位して、皇都が落ち着いたら浩然と二人で帰るはずだったの。遅くとも、一年後には帰して貰えると、官吏の閻様からは言われていたの」
ふぅ、と静麗は息を吐き、震える声を抑えようとした。
「でも、約束は果たされなかった。浩然が、皇帝陛下となってしまったもの。……それに、………皇后娘娘と婚姻をした以上、もう、浩然は雅安へ帰る事は出来ないのでしょう? でも、私は、これ以上皇都にいる必要は無い筈。其れどころか、きっと皆、早く田舎へ帰って欲しいと思っているでしょうね」
芽衣は答えることが出来ずに俯いた。
確かに、朝廷にとって必要なのは、直系の血筋である皇帝陛下のみで、静麗は、皇帝陛下の平民時代の汚点と捉えられかねない。
それに御正室である皇后娘娘以外にも、今後、後宮には多くの貴族の姫君達が、側室として召し上げられ、入宮してくるだろう。
そんな後宮に、平民の静麗の居場所があるわけもない。
「そう、ですわね。……それが、一番良いと思います」
芽衣は遣る瀬無い思いで、静麗の言葉に同意をした。
そんな、芽衣に静麗は強張った笑顔を浮かべ、続けた。
「だから、それを浩然に伝えて欲しいの。…………本当は自分で伝えたいけど、平民の私が皇帝陛下となった浩然に、会わせてもらえるとは思えない。だから、…………私は、雅安に帰るけれど、浩然は、…………皇帝陛下は、どうか、皇都で、責務を果たしてください、と……伝えて欲しいの」
震える声で言葉を続ける静麗に、芽衣は身を乗り出して、その両手を強く包み込んだ。
「……そして、………今まで、ありがとう、………大好きでした、と……」
とうとう我慢が出来ずに、笑顔が崩れ、静麗の瞳からは涙が幾筋も流れ落ちた。
芽衣は奥歯を噛みしめ、静麗の小さな手を上から強く握り締めた。
「はい。静麗様。私から女官長様へ願い出て、皇帝陛下へと、必ずお伝えして頂きますわ」
静麗は芽衣の言葉に何度も首を上下に振り、頷いた。




