四. 真実
皇帝陛下即位と、皇后娘娘冊立の儀式の翌朝、芽衣は恐る恐る月長殿にある、静麗の寝室に声を掛けた。
昨夜は、皇帝陛下が皇后娘娘を娶られ、その二人が過ごす、初めての夜だ。
思い詰めた静麗が最悪な事をしないかと、心配して夜中に何度も寝室の前まで来ていたのだ。
「失礼いたします、静麗様」
芽衣は扉を開けて、薄暗い寝室へと静かに足を踏み入れた。
中では静麗が椅子に座って芽衣を見てきたが、昨日着ていた静麗の私服姿だったことに、芽衣は眉を寄せた。
「静麗様、……お休みには、なられなかったのですね」
それに対して、静麗は口角を小さく引き上げて見せた。
「とにかく、一度お召し替えをなさいましょう。それと、お食事を。昨日から何も口になさっていないのでは、身体に悪いですわ」
返事を聞く前に芽衣は箪笥に向かい、中から着替えを取り出した。
そうして、静麗を促し、質素な私服から美しい襦裙へと着替えさせる。
静麗は、芽衣に言われるまま、黙って着替えを済ますと、手を引かれて居間へと移った。
「静麗様、朝餉を取りに行って参りますから、暫くお待ちいただけますか」
静麗はそれに小さく頷きを返した。
芽衣は急いで朝餉を取りに、厨房へと向かう。
着替えも済まし、寝室から出てきて、朝餉も食べる気力があるようだが、静麗がまだ一言も口を聞いていない事が、芽衣には不安だった。
何時もの様に二人分の食事を円卓の上に置き、向かい合って座る。
芽衣は静麗の様子を注意深く見守っていた。
二人は話をすることも無く、食事をすすめる小さな音のみが部屋に響く。
「ねぇ、芽衣」
「っ、はい。静麗様」
静麗が俯いたまま、小さく声を掛けてきたのに、芽衣は息を詰めて静麗を見つめた。
昨日の様に、泣き叫びながら罵られても大丈夫なように、両手をぎゅっと握り締めて、心を強く持ち、静麗に向き合う。
「病で調子が悪い皇子殿下が居ると、閻様からは聞いていたのだけれど、もしかして、そんな人、初めから居なかったのかしら……」
「静麗様。……いいえ。それは、本当の事でございます」
芽衣は大きく息を吐くと、静麗の心に伝わるようにと真摯に語り掛けた。
「先の疫病で、直系の男性皇族の方々は、お一人を除いてお亡くなりになられました。傍系の男性皇族は数人はおられますが、とても皇位につけるほどの血筋ではございませんでした」
静麗は、芽衣が淹れてくれた、何時も飲んでいる香り高いお茶の器を手に取り、それを小さく揺らした。
「直系の皇子殿下がたった一人でも居たのなら、どうして平民腹の浩然が皇帝陛下になってしまったの……」
「それは、……本来、皇族様方の私的な事を、私の様な侍女が口に出すことは許されないのでしょうが、静麗様には、もう、嘘は申し上げたくありません」
芽衣は静かに目を閉じると、手を強く握り締めた。
「唯お一人、疫病から生還なされた皇子殿下は、病の為に、子を成すことが出来ない身体となってしまわれたのです。……その為、朝廷は大混乱に陥りました。二千年続いた皇家が、その伝統が、歴史が閉ざされようとしていると。そんな混乱の最中に、お一人の朝廷の官吏様が、遥か遠い場所に居られた皇子殿下を探しあてられ、皇都へと連れ帰られました。例え平民腹の皇子でも、前皇帝陛下の直系であられる皇子殿下です。私達は、これで皇家が存続出来ると、皆歓喜に包まれました。……ですが、まさか、その皇子殿下が、もう既に婚姻を結んで居るなどとは、思いもしなかったのです」
そこまで言うと、芽衣は目を強く瞑り、静麗に対して深く、深く頭を下げた。
「……お許しください、静麗様。貴女様が苦しむのが分かっていても、寧波には、直系の皇帝陛下がどうしても、……どうしても必要なのです」
静麗は、芽衣の真剣な表情を見つめながら、閻が羅家を訪ねてきた時の事を、思い返していた。
―――では、本当に、最初から全てが偽りだったのね。……閻様も、一年で私達を返す気なんて、初めから無かったんだ。だから、私には雅安で待っていた方がいいと言っていたのね……
静麗は目を閉じ、力なく笑った。
―――私は、本当に、この皇都では、朝廷の人達にとっては、邪魔者なんだわ。………浩然も、雅安に居る時から、自分が皇帝陛下になることを知っていたのかしら……
静麗は、故郷から皇都へ来るまでの夫の様子を思い出そうとしたが、頭が上手く回らない。
―――でも、後宮で再会したあの時には、すでに全てを知っていた筈。……どうして私には教えてくれなかったの?
静麗はあの再会を果たした日、夫がなんと言っていたかを思い出そうとした。
たしか、……愛していると、婚儀の日の誓いは変わらないと、―――そう、言ってくれた筈だ。
それなら、愛していると言うのなら、どうして私にこんな酷い仕打ちをするのだろう。
無理やり夫を皇帝陛下として担ぎ上げようとしているのなら、どんな事をしてでも、二人で逃げようと考えていたのに―――
昨日の即位の儀式の夫の様子では、自分の意志で皇帝陛下となり、皇后娘娘を娶った様にしか見えない。
静麗は手に取ったお茶に映る自分の顔を見た。
平凡な自分の姿が、水面に揺れて見える。
即位の儀式で、至高の存在である天子様として、美しい皇后娘娘の手を引き、千の臣下達を見下ろしていた夫の姿。
―――皇帝陛下となり、美しく高貴な姫君を妻として娶ることを、私には言いたくなかったの? それとも、言う必要もないと思っていたの?
静麗がどれ程泣き叫んで、嫌だと言っても、もうどうすることも出来ないだろう。
夫は既に皇帝陛下に即位して、平民の静麗では手の届かない、遥か遠い場所に行ってしまった。
この先は、その姿を垣間見ることも出来ないだろう。
この寧波で、一番尊い存在、天子様。
そして、此れからは、その隣には平民の静麗ではなく、美しく身分高い、皇后娘娘が並び立つことになるのだろう。
昨夜、皇帝陛下と皇后娘娘の二人は、きっと、夜を共に過ごした筈だ。
それに、此処は皇帝陛下の後宮だ。
散策した時に煌びやかで大きな宮や、殿舎を幾つも見てきた。
その全てに、皇帝陛下の妻となる側室達が入るのだ。
静麗は、溢れてくる涙が零れないように、静かに目を閉じた。




