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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第三章

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一. 遁逃

 


 信じていた浩然ハオランや、今までずっと側に居てくれた芽衣ヤーイーが、自分に嘘を言って騙していた。

 静麗ジンリーは、寝台の上で一人茫然として座っていた。


 あの花園からどうやって月長殿まで戻って来たのか、はっきりと覚えていない。

 ただ、芽衣を寝室から追い出して、一人にしてと叫んだ事だけは覚えている。

 あれから数刻の時が経っているはずだ。

 灯を灯していない部屋は暗く、窓から月の光が微かに差し込んでいるだけだ。

 夕餉も食べずに今まで茫然と座り込んでいた静麗は、働かない頭で考えた。



 浩然は、再会した時には仮とはいえ、既にこの寧波ニンブォの皇帝陛下だったのだ。

 そして、明日には正式に即位の儀式を経て、真実、皇帝陛下となるのだろう。




「明日の御即位式で、皇帝陛下に即位成されるのは、――― ルゥオ 浩然殿下で御座います。………そして、その場で同時に……貴一品の貴族の姫君が、皇帝陛下の御正室として―――皇后娘娘として冊立なさいます」



 芽衣の声が頭の中で何度も響き渡る。


 皇帝陛下に即位成される、浩然殿下。

 皇帝陛下の、御正室、皇后娘娘……。






 ―――何故、こんな事態になっているの?皇子殿下は病から回復されていないの?



 のろのろと動き、ぐしゃぐしゃになった髪から二本の簪を引き抜いた。



 ―――どうして、浩然も、芽衣も、教えてくれなかったの?



 浩然から贈られた、宝物の簪を胸に抱きしめる。



 ―――浩然が皇帝になったら、皇后娘娘が御正室になったら、私はどうなるの?



 寝具の上で蹲り、頭を柔らかい布団に押し付ける。



 ―――それって、浩然が、私以外の女の人と、婚姻するって、いうこと……?



 うぅっと、くぐもった声が口から洩れる。



 ―――後宮で、新しい妻を、貴族のお姫様を貰うの? 私は、もう、要らないの……?











 ―――浩然、応えて……










 ◇◇◇





 静麗の寝室の前では、芽衣が悄然と俯いていた。

 静麗に追い出されてからずっと、扉の前で控えていた。

 中の様子は分からないが、静麗がどれ程傷ついているのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。

 たった、十五歳の少女に、なんという酷い仕打ちを私達はしているのだろうと、芽衣は両手で顔を覆って、涙を流した。



 皇帝陛下とは、この寧波ニンブォでは無くてはならない、どんなことをしてでも必要とする存在だ。

 事情があり、仕方の無いこととは解っていても、それによって一人の少女を不幸にすることに、芽衣は胸が潰されるような痛みを感じた。




 やがて深夜に近い時間となり、芽衣はそっと扉を開けて中へと入った。

 静麗は泣き疲れたようで、寝台の上で小さく丸まって眠っていた。

 その頬には涙の後がいくつも残っている。

 芽衣は手巾で優しく頬を拭い、上着を脱がそうとしたが、その拍子に静麗の手から零れた二本の簪に気が付いた。


 既婚者の証であるこの簪は、夫からの贈り物のはずだ。

 それを握り締めて泣いていた静麗の事を思うと遣り切れない。


 芽衣はその二本の簪を、寝台の横にある円卓の上に丁寧に置くと、静麗の上衣を脱がせて、眠りやすいように衣服を整えると、静かに寝室から退出した。




 ◇◇◇




 翌朝、静麗は早くに目を覚ました。

 暫くぼうっとしていた静麗は、何かを思い出したように、はっとして、周りを見回した。

 直ぐ側の円卓の上に二本の簪を見つけて、ほっとする。

 そして、自分の衣服が寝やすいようにと、寛げられているのを見ると、唇を噛みしめる。



 ―――私を騙していたのに、どうして優しくするの



 静麗は寝台から降りると箪笥を開けた。

 色鮮やかな衣装の中から、唯一自分の私服である、平民が着る質素な服を取り出すと、それを身に纏い、髪を整えて夫からの贈り物の二本の簪を差す。

 そして、寝室の窓からそっと外へと降り立った。



 ―――浩然が、皇帝陛下となると言っていたけれど、私はまだ自分の眼で見たわけじゃない。それに、浩然に直接話を聞いてもいない。もし、嫌がる浩然を無理やり皇帝陛下として祭り上げようとしているのなら、どんな事をしてでも二人で皇城ここから逃げ出して、故郷に帰ってやるわ―――!



 静麗は、ぎゅっと手を握り締め、虚空を睨み付けた。






 静麗は、誰にも見つからないように、月長殿を抜けだすと、後宮の裏門へ向かった。

 そこは、今日の即位式の準備の為か、人が慌ただしく出入りを繰り返していた。

 荷を運ぶ女官や下働きに紛れて、静麗もそっと後宮の外に出ることが出来た。


 本来なら、後宮の出入りは厳しく規制されているのだが、現在の後宮には、数人の公主殿下が居るだけで、皇帝陛下の妻である、皇后娘娘や側室達は一人も居ない。

 その為、警備も緩くなっており、また、本日の即位式の準備に追われて、出入りも激しい。

 門を潜る一人一人の確認など、到底出来るものでは無かった。

 その上、質素な服を着た静麗は、下働きの者にしか見えない事もあり、門衛は何も気付くことなく、静麗を後宮から出してしまった。


 静麗は人の波に乗って、外朝があると思われる方へと歩いてゆく。







「急いで!早くその荷を天河殿に運んで。即位式がもうすぐ始まるわよ」


 長い間、俯いて歩き続けていると、急に女官の急き立てる声が聞こえてきた。

 その声に顔を上げると、前方の石造りの回廊を歩いていた女性達が慌てて小走りで駆けていく。

 静麗もその人混みに紛れて、政務や儀式を行うと言われている、外朝に辿り着いた。





 そこには、今まで見たことも無い巨大な建物が聳え立っていた。

 外朝三殿の一つであり、国家的な儀式などを執り行う一番大きな建物、天河殿だ。


 その天を突くような荘厳な建物の正面前には幅広い石階段があり、その長い階段を下ると広大な石畳の広場が広がっていた。

 其処そこには一体何人の人が居るのかと思う程の人々が、見渡す限り整然と並び跪いていた。

 白く美しい石床の上に、貴族や官吏、武官といった人達が、儀式用の華やかな衣装に身を纏い、天河殿に向かい跪いている。 

 彼方此方あちこちに華やかな幟が幾つも立てられていて、天河殿には儀式用の飾りが溢れるほどに盛られている。

 その天河殿の一階部分の中央には、人が数人しか通れない程の小さいが美しい扉があり、其処そこから石畳の広場に向かい、赤い光沢のある絨毯が長く敷かれていた。




 その様子に静麗は鳥肌が立つ思いがした。




 ―――これは、皇帝陛下の即位の儀式の場なんだわ




 女性達が、天河殿と呼ばれた巨大な建物の裏へと続く道を走っていくが、静麗は動揺してよろめき、回廊の石柱に手をついた。

 静麗はそこから動くことも出来ずに茫然と、ただ、典雅で勇壮な天河殿と、其処に犇めく人々を見つめることしか出来なかった。










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