一. 芽衣
丁 芽衣は貴十五品位の下級貴族の五女だ。
下級貴族の中でも特に貧しく、貴族とは名ばかりの平民と変わりのない生活を送っていた。
家が貧しく持参金も用意出来ない自分では、嫁ぐことも出来ないだろうと、成人すると後宮で侍女となる道を選んだ。
そうして二年の月日が流れたある日、後宮内で急遽受け入れる事となった、平民の静麗の専属侍女を決める事となった。
だが他の侍女達が平民の女性の侍女になるのは嫌だと、おっとりとした性格の芽衣にその役を押し付けた。
もともと貴族とは名ばかりの生活を送り、平民とそう変わらぬ暮らしをしていた芽衣は特に不快に思うことも無く、平民の身で、一人後宮に住むこととなる年下の少女を支えてあげようと考えていた。
実際に会った静麗は大変可愛らしい少女で、芽衣は好感を抱いた。
顔合わせの為に、静麗と女官長が待つ月長殿に着いた芽衣は大きく深呼吸をし、心を落ち着けようとした。
後宮の侍女として、まだ二年しか働いていない芽衣は、女官長と直接話をすることなど滅多にない。
緊張しながらも月長殿の居間に入ると、女官長の前に座る小さな少女が目に入った。
もしかして、成人前なのかもしれないと思い、怖がらせないように、静麗に優しく微笑みかけた。
静麗に芽衣を紹介すると、多忙な女官長は直ぐに立ち去ってしまった。
二人きりになった芽衣は静麗の疲れが滲む顔が気になった。
静麗が休みたいと言うので、直ぐに寝室へと案内をする。
天蓋付きの大きな寝台に驚く静麗に寝衣を渡し、休むようにと促す。
一人になった方が休まるだろうと思い、寝室から退出した芽衣は、静麗が田舎から持ってきたという荷を引き取りに向かう事にした。
「荷を預けているなら、あそこかしら」
芽衣は同僚の侍女達の間をすり抜け、目的の場を目指す。その時、芽衣に声が掛けられた。
「丁、女官長がお呼びよ。直ぐに向かって」
「っ、はい。直ぐに」
芽衣は返事をすると、踵を返し女官長の部屋を目指す。
女官長の部屋には入ったことは無いが、場所は誰でも知っている。
角を何度も曲がり、吊灯が等間隔で設置された優美な回廊を足早に通り抜け、皇宮に近い場所にある女官長の部屋に辿り着く。
そこで一旦息を整えると、部屋の外から声を掛けた。
直ぐに、お入りなさいと女官長の声が聞こえてきた。
芽衣は緊張しながらも、女官長の部屋へと初めて足を踏み入れた。
四人部屋の芽衣の部屋と違い、広く大きな部屋だ。
その中で机に向かって書類を見ていた女官長は、芽衣に此方に来るようにと招いた。
芽衣は女官長の前まで行くと深々と頭を下げ揖礼をした。
それに対し女官長は一つ頷く。
「蒋様の様子はどうです」
「はい。お疲れになっておられたようで、夕刻まではお休みになられるようです」
「そう」
「それと、蒋様より荷を引き取る様に頼まれました。此れからそれらを探しに参ります」
芽衣の言葉を聞いた女官長は目を細めて冷たく言い放った。
「その必要はありません。荷は全て焼却致しましたから」
「え、……焼却?」
女官長の口から出た言葉に芽衣は驚き目を見張った。
静麗が故郷から持ってきた荷を勝手に燃やしたと言ったのか。
芽衣は信じられず、女官長を凝視した。
「大国である寧波の後宮に、あの様なみすぼらしい恰好で居てもらっては品位が下がります。荷にしても同じです。此れからは此方で用意した衣装のみを着せなさい」
「女官長様……でも、」
「丁 芽衣。貴女は蒋様の専属侍女ですが、蒋様とは距離を置いて接することです。心を傾けてはいけません」
女官長の冷たい言葉に芽衣は納得が出来ず、思わず聞き返してしまう。
「女官長様、どうしてですか。蒋様を客人として遇せよと、仰っておられたではございませんか」
「確かに、そう言いました。―――丁、貴女達下級侍女には、蒋様は訳あってお預かりしている平民の女性としか伝えていませんでしたね」
「はい、どういった謂れの方かはお聞きしておりません。ただ、平民の女性で、当分の間、後宮の月長殿で客分として遇するとしか」
女官長はそこで初めて小さく息を吐いた。
「今後、他の侍女や使用人達にも通達が出るでしょうが、あの女性は、本来は羅静麗という名なのです」
「羅様?……それは、まさか……」
「ええ、そうです。今日、皇宮にお入りになった皇族、羅 浩然様の奥方になります」
芽衣は驚愕し、口を手で覆った。
直系の皇族でまだ年若い青年が、遥か遠い田舎の地で見つかったという朗報に、朝廷や、後宮が大きな喜びに包まれたのはつい数日前だ。
だが、その皇子の詳細は一切伝えられておらず、お会い出来るのは、朝廷の一部の者達のみと聞いていた。
まさか、既に婚姻を結んでおられるとは思ってもみなかった。
しかも、その奥方が今後宮にいる小さな少女、静麗だなどとは。
そこで芽衣は重大な事を思い出し、その顔を青ざめさせた。
「女官長様っ、しかし、かのお方は、皇帝陛」
「丁。お黙りなさい。その先は、今は言ってはいけません」
女官長は芽衣の言葉に被せるように言い放つと立ち上がり、芽衣の前まで歩いて来た。
そしてその長身を傾け、芽衣の顔を正面から覗き込んだ。
「良いですか?貴女は、何も考える必要がありません。ただ、蒋様の侍女として仕えていればいいのです。事が確実に成就するまでは、何も話してはいけません。蒋様にも気取られてはなりません。その為に人の寄り付かない月長殿に入って頂いたのですから」
「そんな、……黙っている事など出来ません。静麗様が」
「丁」
芽衣の訴えるような声を、女官長は冷たく遮った。
「貴女の家はたしか、貴十五品の位でしたわね」
「え、はい……そうですが、……」
「貴女がこの後宮で、朝廷の意に反した行いをすればどうなるか、仮にも貴族の娘である貴女にはわかるでしょう」
「女官長様……」
芽衣の青ざめた顔を見た女官長は、ふぅ、と息を吐き、芽衣から離れてまた椅子に腰かけた。
「専属侍女である貴女には、もっと早くこの事を教えて、蒋様に心を寄せるなと伝えるべきでした。私の失態ですわね」
芽衣は俯き、胸の前で組んだ両手をぎゅっと握り締めた。
「……丁。家が、家族が大事なら、与えられた仕事を全うしなさい。蒋様に尽くすなと言っている訳ではないわ。ただ、蒋様に心を寄せると、この先貴女が苦しい思いをするかもしれない事を、覚悟しておきなさい」
「………」
俯き、返事も出来ない芽衣を一瞥した女官長は溜息を吐くと、下がりなさいと命じた。
「失礼、致します。女官長様」
芽衣は頭を下げると、よろける様に女官長の部屋を辞した。
芽衣は家族の顔を思い浮かべた。
貴十五品の下級貴族である我が家が朝廷に目をつけられれば、どのような目にあうかと芽衣はぶるりと身体を震わせた。
静麗に真実を話す事は出来ない。
芽衣は激しい罪悪感を感じながら、静麗の眠る月長殿へと戻った。
この先どう静麗と接すればいいのかと苦悩しながら、芽衣は疲れて眠る静麗に声を掛けた。
そんな葛藤を胸に抱く芽衣に対し、何も知らない為とはいえ、静麗は荷を燃やされた事も笑って許し、更には芽衣を気遣う様子まで見せた。
その静麗の心根の有り様に、芽衣は覚悟を決めた。
家族の事もあり、朝廷に反することは出来ないが、自分だけはこの心優しい少女を支え、真摯に仕えようと。
例えこの先静麗に罵られ、憎まれようとも、出来る限りの事はしようと決意を固め、己の心に誓ったのだ。




