十. 噂話
浩然と会えないまま半月が過ぎた頃、静麗は芽衣と一緒に月長殿から出て後宮内を散策していた。
数日置きに、気分転換の為にと芽衣に連れ出されて、少しずつ彼方此方の庭園や、荘厳な建物群を見に出かけていた静麗は、その日も少し離れた庭園の中を散策していた。
午後になり、日が高くなるにつれ、気温も上がってきている。
芽衣は目の上に掌を当てて空を見上げた。
「今日は日差しがきついですわね。静麗様、私、傘を取りに月長殿まで戻って参りますわ。暫し、あの木陰でお待ち下さいますか」
「別に、このぐらいの日差しなら大丈夫よ。態々取りに戻るのも大変でしょう」
「でも、日焼けなどされては大変ですもの。直ぐに戻りますわ」
芽衣はそう言い残すと、今来た道をひき返して行った。
一人残された静麗は、芽衣は過保護だと苦笑した。
木陰に入り、その根元に腰を下ろし、目を瞑る。
少し時間が出来ると、直ぐに浩然の顔が浮かんでくる。
何度も浩然の様子を芽衣に尋ねるが、芽衣にもわからなかった為、女官長に尋ねる様にお願いをしていた。
しかし、返事は何時も同じで、まだ当分は忙しい為に、対面することは無理だという話だった。
では、自分から会いに行きたいと願っても、平民の静麗が皇宮や外朝に出向くことは許されなかった。
――――どうして、妻が夫に会うのに他人の許可がいるのよ! 少しの時間ぐらい何とかなるはずよ!
憤りを感じるが、ぶつける相手が何処にもいない。
仮に居たとしても、平民の静麗が、身分の高い朝廷の人間に何かを言えるはずも無かった。
半月以上会うことが出来ない夫の事を思うと、不安で涙が込み上げてきそうになり、慌てて頭を振る。
落ち込む静麗を何とか元気づけようとしている芽衣に、これ以上心配を掛けるのは申し訳ない。
静麗は袖口で目元を擦り、涙を拭った。
月長殿からも少し離れたこの場所には女官や侍女も多いのか、ざわざわと遠くで人の気配が感じられる。
その時、静麗達の宮からは反対方向から数人の足音が聞こえてきた。
静麗は何となく、今は誰とも会いたくないと思い、木立の裏に回ってその人達が通り過ぎるのを待った。
今までにも何度か後宮の使用人達と遭遇していたが、その時に自分を見る使用人達の目が何となく苦手だと感じていた。
皆、静麗の事を知っているのか、値踏みされているような、嫌な感じを受けていたのだ。
庭園の小路を歩いて来たのは、まだ若い三人の使用人だった。
皆、両手に何かの荷物を持って歩いている。
「では、いよいよ正式に御即位されるのね」
「ええ! 先日、皇帝陛下が空位のままではまずいからと、仮の即位式は行われたらしいけど、次に行われるのは、天河殿で行われる正式な即位の儀式だそうよ。その為に、朝廷で働く官吏や女官達は、今大変な忙しさだそうよ。後宮の手の空いている者も動員されているっていう話だから」
「あぁ~、即位式見てみたいわ~」
「無理よ。私達のような下働きの使用人は、当日までの手伝いが出来れば良い方よ。でも、本当に見てみたいわね。即位と同時に皇后娘娘も冊立されるっていう噂よ」
「まぁ! じゃあ、後宮に新しい主が来られるのね。良かったわ~。こんな静かな後宮は、後宮ではないもの」
「本当にねぇ、早く昔のような華やかな後宮に戻って欲しいわ。でも、今後は沢山の側室様達がお召しになられるから、私達もきっと忙しくなるわよ」
「えぇ~、それはちょっと嫌だわ」
「あはは、そうよね」
使用人達は楽しそうに喋りながら庭園の小路を歩き去って行った。
静麗は今聞いた使用人達の噂話に当惑した。
皇子殿下がもうじき正式に即位されるなど、芽衣からは聞いていない。
でも、皇子殿下は仮の即位を既に済ませているという話だった。
だったら、もうじきあるという、正式な皇帝陛下の即位の話も本当なのではないだろうか。
静麗は、ほっと安堵の息を吐き、身体から力を抜いた。
仮とはいえ、即位が出来る程に皇子殿下が病から回復しているのなら、浩然と雅安に帰れる日もきっと近いに違いない。
今浩然に会えないのも、本当に即位の準備等で忙しいのだろう。
静麗の顔に、久しぶりに笑顔が浮かんできた。
―――即位の儀式が済めば、浩然にも会えるかしら。……良かった。……このままずっと会えないのかもなんて、馬鹿なことまで考えていた自分が恥ずかしいわ
木立の裏から出て来た静麗は、晴れやかな気持ちで晴天の空を見上げた。
―――あぁ、一日も早く皇子殿下が即位されればいいのに
◇◇◇
「静麗様、傘をお持ちしましたわ」
静麗が浩然との再会を予感し、期待に胸を膨らましていると、芽衣が月長殿から傘を持って戻って来た。
「芽衣、ありがとう!」
芽衣は始めて見るような静麗の晴れやかな笑顔をみて、少し戸惑ったように尋ねた。
「どうかされたのですか、静麗様。何だか凄く嬉しそうですわね」
不思議に思いながらも、静麗の満面の笑みを見た芽衣は、自身も嬉しそうに静麗に傘を差し掛けた。
「ええ。今とっても良い話を聞いたの。と言っても、使用人達がおしゃべりしていたのが聞こえたのだけれどね」
静麗は嬉しそうに芽衣に報告する。
「まぁ、どんな良いことがあったのですか? 私にも教えて下さいませ」
「ふふっ。芽衣もまだ知らなかったのね。……皇子殿下が、もうじき正式に皇帝陛下に御即位なされるそうよ。仮の即位はもう済ませているらしいから、御身体も随分良くなったのね。良かったわ」
静麗が嬉しそうにそう言った瞬間、芽衣が差し掛けてくれていた傘がぐらりと傾いた。
「芽衣?……大丈夫? 傘なら、私自分で持つわよ。きっと、芽衣より私の方が力持ちよ」
「静麗様……御即位のお話を……いぇ、……他にも何かお聴きになりましたか」
「え? 他にも?……あぁ、そういえば。皇后娘娘も立てられるような事を言っていたわ。後宮も昔の様に華やかになるって、喜んでいたもの」
「そう、ですか……」
「芽衣? 何だか辛そうよ。この日差しの中、月長殿まで往復したから、気分が悪くなったのではないの?」
「―――いいえ。いいえ、大丈夫ですわ」
芽衣は頭を振り、平気だと主張したが顔色が悪い。
「芽衣。今日はもう宮へ戻りましょう。体調が良くないなら、部屋に下がってもらってもいいのよ。私は一人でも大丈夫だから」
「静麗様……」
芽衣は俯くと、その場で跪き、頭を下げた。
「芽衣?」
「申し訳ございません。少しの間、下がらせて頂いても宜しいでしょうか」
「勿論よ。体調が悪い時は休んでいて頂戴。今日は、もう私一人で大丈夫だから」
静麗は芽衣を立たせると、月長殿に向かって一緒に歩き出した。
月長殿に戻ると、芽衣は何度も頭を下げた後、侍女の部屋がある一画へと去って行った。
静麗は、芽衣の顔色の悪さを心配しながらも見送った後、一人で自室としている部屋へと戻って行った。




