九. 報告
一悶着あった四阿では、静麗と芽衣の二人だけとなっていた。
伝雲は二人に挨拶を済ませると、この後に任務があると四阿から辞した。
静麗は芽衣が淹れてくれた香り高い茶を飲みながら、芽衣を見つめた。
―――いくら、平民と変わらない生活をしていたと言われても、貴族には変わらないのに……
静麗は複雑な思いでお茶を飲み干した。
そこで、ふと先程の芽衣の様子を思い出した。
「ねぇ、芽衣。貴女、郭家の事に詳しいのね。さっきも近衛武官の、えっと、なんていう御名だったかしら。副官様のことも知っていたみたいだし。どうし…」
そこまで言って芽衣を見た静麗は口を閉ざした。
芽衣の顔が真っ赤になっていたからだ。
「え? 芽衣。どうかした」
「何でも御座いませんわ。……」
芽衣の目が激しく動く。
静麗は身を乗り出してその顔を覗き込もうとしたが、芽衣は持ってきていた盆で顔を隠してしまった。
「芽衣。もしかして、」
「違います」
静麗の言葉を遮るように芽衣は早口で応えた。
「……」
「……」
静麗は乗り出していた身を引くと、ふぅ、と四阿の天井に向かって息を吐き出した。
何となく、芽衣の思いは察したが、今の静麗にはどうすることも出来ない。
先程の話を聞く限り、郭家は貴族の中でも高位の大貴族のようだ。
平民と変わらないという下級貴族の芽衣とでは、きっと釣り合うことがないのだろう。
芽衣の思いが唯の憧れか、真剣な思いかは分からないが、今はそっとしておこうと考えた。
―――それに、人の恋路をどうにかするよりも、私の現状の方を先にどうにかしないと
溜息を飲み込んだ静麗は、もう一つ気になっていた事を芽衣に聞いた。
「でも、さっきの女性。大貴族のお姫様なのに、武官になるなんて、すごいわね。お家の人達は反対しなかったのかしら」
話題が逸れたことにほっとした芽衣は、そうですわねと答えた。
「郭家は古くから続く由緒ある大貴族です。代々、武官や近衛武官が宮城に士官してきました。確かに、一族の傍系の中からなら其れなりに女性武官も出ていたでしょうが、伝雲様は直系の姫君ですから、大変珍しい事となりますわね。本来なら後宮で側室となることも出来る御血筋ですから」
「そんな凄い方が警護なんて仕事をされているのね。なんだか何もしていない私は申し訳ないわ」
「静麗様……」
静かな四阿の中で、二人は少しの間、静寂と会話を楽しみ、月長殿へと戻って行った。
◇◇◇
四阿を辞した伝雲は後宮を抜け、外朝にある天河殿の長い回廊を颯爽と歩いていた。
外朝は皇帝陛下が主権者として政務を司る場所であり、また国外の使節の謁見を行ったり、国家的な儀式を行う場所でもある。
その外朝の中にはひと際大きな建物が三つ有り、それらは外朝三殿と呼ばれていた。
その中でも特に荘厳な殿舎は天河殿といい、代々の皇帝陛下が執務を行う部屋や、重要な官庁が集まっている。
天河殿の美しい、朱や金の欄干がある回廊を通り過ぎると、女官や官吏が伝雲に気付き黙礼をしてくる。
それに頷きで返して足早に通り過ぎていく。
天河殿の中でも、奥まった場所にある部屋の前で足を止めた伝雲は、部屋の中へと声を掛ける。
すると直ぐに応えがあり、入室を許可する声が聞こえた。
「失礼します、兄上」
伝雲は扉を開けると素早く部屋の中へと入って行った。
中では一人の男性が執務机の前の椅子に腰かけ、筆を持って書を認めていた。
「暫し待て」
顔を上げずに伝雲に告げると、さらさらと何かを紙に書きつけていく。
その様子を離れた場所から伝雲は黙って見ていた。
漸くきりの良い所まで書き終えたのか、男性は筆を硯に置くと顔を上げ、伝雲を見た。
「兄上。お忙しい所申し訳御座いません。本日、蒋様と対面を果たしましたのでご報告に上がりました」
「あぁ、そうか。……ゆっくりと話しを聞きたい。其方の円卓に移ろう」
伝雲が兄上と呼んだこの男性は、この大国、寧波で近衛武官を務めている、郭家の次男である俊豪だ。
武の一族として名高い郭家でも特に身体能力に優れ、また体格も良く、若くして近衛武官の中でも頭角を現した。
真面目で誠実な人柄で武官達の尊敬を集め、現在は二十七歳という若さで副官の地位に着いている。
伝雲はそんな兄を幼い頃から尊敬し、慕い、自分も同じ武官の道を歩むことを決心した。
大貴族の娘であった伝雲であるから、反対の声は多数上がったが、本人の意思が固いことと、兄が後押ししてくれたお陰で、紆余曲折の末に一年前には兄と同じ近衛武官となることが出来た。
貴族の娘という事で周りの心配を余所に、伝雲は厳しい訓練にも耐え、常に冷静沈着なその姿は、近衛武官に配属になり一年足らずだが、上官達の評価はかなり高い。
「では、聞こう。蒋様の様子はどうだ。後宮に異変は無かったか」
「はい。私は本日早朝より後宮内を隈なく歩いてまいりました。御側室方が居なくなった後宮は人も少なく、何も異常は見つかりませんでした。また、蒋様には橄欖宮の近くの四阿でお休みの所に偶然にも遭遇致しましたので、その場でご挨拶をさせて頂きました」
俊豪は身を乗り出して声を潜めた。
「蒋様と言葉を交わしたのだな。どのようなお方だ」
「はい。事前にお聞きしておりましたように、平民の平凡な少女に見えました。とても小柄で十五の歳よりも下に見えるような容姿の方です。侍女が一人付いておりましたが、其方も問題はなさそうです。侍女が貴族であったことを知り、動揺している様子から、後宮を乱すような大それた行動を起こすことは無いかと思われます」
「ふむ。……しかし、今はそうでも、この先はどうなるかは分からぬ。特に、皇子殿下が正式に即位なされた後の後宮は、以前の様に側室様方が多数召されることだろう。その時にその少女がどうするか……」
俊豪は目を伏せ、苦渋の表情を浮かべる。
「兄上。……兄上の御心配も分かります。私が後宮で任務を果たしますので、どうかご安心を」
「頼む。今の朝廷は混乱の中にある。信頼出来る者も少ない。お前が後宮で目を配ってくれているなら、私は安心してこの朝廷で陛下の護衛に当ることが出来る」
「はい、お任せください」
伝雲は大きく頷くと今後の警備について俊豪と話し合った。
そして夕刻前に兄であり、上官でもある俊豪に退出の挨拶をし、執務室を出て行く。
伝雲は後宮へ続く回廊を歩きながら、今日会った純朴な少女を思い浮かべた。
何も起こらなければ良いが……
伝雲は顔を顰めると、後宮へと戻る足を速めた。




