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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第二章

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七. 逍遥

 


 静麗ジンリーの後宮での日々は、毎日同じことの繰り返しだった。



 何もすることがなく、日がな一日、月長殿で浩然ハオランからの連絡を待っていた。

 しかし、いくら待っても浩然がやって来ることは無く、また静麗が皇宮や、外朝に赴く事は許されなかった。

 芽衣ヤーイーは侍女としては役職も無い、まだまだ新米で、朝廷の事など聞いても応えられなかった。

 申し訳なさそうにする芽衣に、それ以上尋ねることも出来ず、女官長に状況を聞きたくとも、忙しいのか初日に会ったきりだ。

 手紙をしたため、芽衣経由で女官長に渡してもらったが、その返信も来ることは無かった。


 まるで、この橄欖宮に静麗がいることが忘れられているように、芽衣以外が月長殿に来ることも無い。

 静麗は日が経つにつれ、暗く沈んでいった。


 そんな静麗を芽衣は心配し、何とか元気づけようと後宮の庭園を見に行かないかと誘う。

 殿舎で一日籠っていても何も変わらないと感じた静麗は、芽衣の誘いに乗り、久々に月長殿から外へ出ることにした。



「静麗様。出かけられるなら、此方の御衣装に着替えられませんか?」


 芽衣が差し出した薄紅色の美しい襦裙を見て、静麗は困った様に眉を下げた。

 芽衣はどうしてか、静麗を着飾らせるのが好きな様で、何度も着替えを促してくる。

 静麗が美しい衣装に袖を通すと嬉しそうにするので無下にも出来ず、気が向いた時には芽衣の提案に乗る様にしていた。


「芽衣。散策に出かけるなら、今着ている衣装の方が歩きやすいと思うわ。その衣装は領巾が長いから、外で汚しそうで怖いわ」

「そうでございますか? 着飾った静麗様を後宮の使用人達に見て頂きたかったのですが、残念ですわ」

「はぁ、芽衣……」


 おっとりと首を傾げた芽衣に、静麗は脱力した。



 ―――自分などが着飾った所で、誰も見向きもしないだろうに。……浩然なら喜んで、褒めてくれるだろうけど……



 また浩然の事を考えて落ち込みそうになった静麗は、首を横に振るとその考えを追い出し、芽衣に顔を向けた。


「このままでいいわ。行きましょう、芽衣。後宮の庭園は、此処へ来た初日に少し見ただけだから、楽しみだわ」


 静麗は小さく笑うと、芽衣の先導で月長殿を出て、下草を踏みしめて寂れた月長殿の前庭を歩き、橄欖宮の門を抜けた。






 大国寧波ニンブォの後宮内には幾つもの荘厳な宮が存在する。

 その中には大小様々な殿舎が幾つも建てられており、嘗ては其処に数多の側室達が部屋を賜っていた。

 静麗が住む橄欖宮もそうした宮の一つではあるが、少し他とは異なり特殊な宮であった。

 数代前の皇太后が後宮の諍いにうんざりし、人を寄せ付けない為に後宮の最奥に小さな宮を建てた。

 その中に、たった一つの小さな殿舎を作り、其処に移り住んだのだ。

 皇太后が亡くなった後は、誰もその宮に入る者はいなかった。

 なぜなら、皇帝陛下が住まう皇宮からは一番遠く、お渡りも望めない様な寂れた小さな殿舎だったからだ。

 そんな謂れがある宮だとは知らない静麗は、少し寂しい場所だとしか感じていなかった。



 芽衣は後宮内に幾つもある庭園の中でも、静麗の住む宮から一番近い場所へ静麗を案内する。

 そこは比較的小さな庭園だが、緑が豊富で落ち着いた感じのする場所だった。

 庭園の奥には石造りの四阿があり、八本の柱にはそれぞれに蔦や花の彫刻がなされていた。

 四阿の中には木製の寝椅子が設置されており、その上には色鮮やかな敷物や、綿を詰めた布が幾つも置かれており、午睡するにはぴったりの場所だった。



「素敵な場所ね。後宮内には綺麗な所が沢山あるのね」


 静麗は爽やかな風が通り抜けていく四阿の中へ入ると、ぐるりと見渡して言った。


「はい、静麗様。此方の庭園は小さい物ですが、皇宮に近い場所や、皇后娘娘が居られた宮の前などは、それは素晴らしい見事な庭園がございますわ。他にも、それぞれ趣向を凝らした特徴ある美しい場所が沢山ございます。全部を見て回ろうと思うと、どれだけの日数が掛かることか、分かりませんわ」

「後宮は内廷の中にあるのでしょう? でも、この後宮だけでも、とても広いのね」

「はい。ですから皇族やご側室の方達は、移動には馬車や輿をお使いになられるのですわ」



 静麗は初日に後宮の裏門で見た、長い、長い白壁を思い出した。

 確かに、あの広大な敷地内を、平民の静麗ならまだしも、高貴な方々が歩くのは大変だろう。


 静麗は四阿の中に入ると寝椅子に腰かけた。

 そして目を閉じてみる。

 何処からか鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 この辺りには人もあまり近づかないのか、風が木々を揺らす音や、鳥の声など自然な優しい音しか聞こえない。


 静麗は目を閉じたままゆっくりと息をして、それらを感じとる。

 心が少しずつ癒されていくようだ。


 月長殿に籠っていてばかりでは、身体にも心にも良くなかったのだろう。

 連れ出してくれた芽衣には感謝しなくては。


 目を開けると四阿の前で控えている芽衣に微笑む。


「芽衣。連れて来てくれて、ありがとうございます」

「いいえ。静麗様、此方で何かお飲みになりませんか。私お茶を用意してまいりますわ」

「もう少し此処に居たいと思っていたの。ありがとう」


 芽衣は静麗に頭を下げると、来た道を戻って行った。

 一人になった静麗は、目を閉じて辛い現状を一時忘れ、自然の中へ意識を溶け込ませていった。




 暫くぼんやりと鳥の声に耳を澄ましていた静麗だが、人の気配を感じて目を開けた。

 芽衣が戻ってきたのかと、気配のした方へ顔を向けると、見知らぬ女性が一人四阿の前に立っていた。


 侍女や女官の服装とも違う。

 かといって下働きの者には見えない。

 誰だろうと静麗は訝しんで首を傾げた。


 女性は黙って静麗の顔を見ていたが、ふっと口元を綻ばせるとその場に片膝を着き、頭を下げた。


「あの、どなたですか。私に何か用事でも?」


 静麗はいきなり現れて跪いた女性に困惑した。

 女性は機敏な動きで顔を上げると静麗に微笑みかけた。


「蒋様、お初にお目にかかります。私は後宮で武官を務めることになりました、グゥォ 伝雲ユンユンと申します。どうぞ、伝雲とお呼びください。蒋様がお住まいの橄欖宮一帯を警護することになりましたので、ご挨拶に伺いました」


 伝雲という可愛い響きの名前の女性は、凛々しい顔立ちをした美しい女武官だった。

 良く見ると、その腰には剣が下げられている。


 静麗は女性の武官というものを始めて知り、中性的な郭伝雲の整った顔を戸惑って見つめた。






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