二. 邂逅
湯浴みを済ませ、何時もはしない薄化粧を施された静麗は、薄い寝衣の上から上衣を羽織り、月長殿の質素な居間でじっと皇帝陛下の訪れを待っていた。
夕刻前から芽衣に手伝って貰い、湯場で隅々まで磨き上げられた静麗は、皇帝陛下をお迎えする為の特別な寝衣を前に、きゅっと唇を噛みしめた。
絹で出来た素晴らしい光沢の白い寝衣は、贅沢に刺繍が施されて、皇帝陛下の側室が身に纏うに相応しい美しい物だったが、静麗の顔は強張ったまま、じっと手に取った寝衣を見ていた。
「静麗様……」
「……分かっているわ。芽衣」
静麗は一度目を瞑ると肩から力を抜いた。
芽衣は寝衣を静麗の手から受け取ると、それを広げて静麗の腕を取り、袖に手を通させた。
芽衣は目を伏せがちに、無言で寝衣を静麗に着付けてゆく。
絹で出来た薄紅の帯を、夜伽の時のみに使う美しくも複雑な形に結び上げ、寝衣の上から薄い上衣を重ねて、髪も直ぐに解けるように、だが、美しく結い上げ小さな簪を一つ着ける。
皇帝陛下のお渡りをお受けするに相応しい、後宮の側室が出来上がった。
「……ありがとう。芽衣」
静麗は床を見つめたまま、たった一人の侍女に礼を言った。
芽衣は目を伏せ、唇を噛みしめると緩く首を振った。
そうして全ての準備を整えた頃には、辺りは暗闇に覆われていた。
何時もよりも多くの燭台に火を灯し、煌々と明るくなった居間で、まんじりともせず待っていた静麗だが、月が天高く昇る深夜近くになり、長時間緊張し続けていた為に疲れ果て、もう今日は来ないのではないかと思い始めた時、先触れが月長殿に訪れた。
芽衣に先導されて部屋に入ってきたのは、直裾袍を身に纏った三人の男性達。
後宮に入ることが出来る男性ということは、この三人は朝廷の高級官吏という事になる。
その中央に立つ男性の顔を見て静麗は驚いた。
――― 閻 明轩
静麗は、この高級官吏である男性の名を思い出す。
静麗にとって、忘れることが出来ない因縁のある男。
きつい眼差しで閻を睨み付けるが、閻はそんな静麗には気付いていないかの様に振る舞い、居間に入ってくると、他の二人を後ろに従えて揃って跪き、側室に対する礼を行う。
そして顔を上げると、にこやかに微笑みを浮かべて、間もなく皇帝陛下のお渡りがあること、さらに、夜伽の閨での決まり事などを、懐から取り出した書を広げ、すらすらと淀みなく読み上げていく。
皇帝のお渡りを初めてお受けする側室には、高級官吏が一度のみ先触れとして訪れ、夜伽を円滑に為すために、側室に閨での規則を告げる事が後宮の習わしとなっている。
だが、閻程の高官が、位の低い側室である静麗の元を訪れることなど考えられない。
静麗が閻の動向を緊張しながらじっと見ていると、閻はふっと嗤った。
閻の後ろに居る二人の官吏と芽衣には見えないだろうが、静麗にははっきりとその表情が見えた。
皇帝陛下の側室として、静麗に対して敬った態度で接しているが、その表情が全てを裏切っている。
閻にとっては、静麗は敬うべき側室等では無く、ただの厄介者なのだろう。
その厄介者が余計なことをしないように、釘を刺すために態々こんな後宮の端にある殿舎まで赴いて来たのだろう。
静麗は動揺を誰にも覚られない様に奥歯を噛みしめた。
「皇帝陛下の臣として、立派にお勤め成されますように」
閻は最後にそう言うと、恭しく頭を下げ、他の官吏と共に居間の入口前まで下がる。
暫くすると、月長殿の外、門の方から複数の人の気配がしてきた。
官吏の一人が居間の入口から外の様子を伺うと、厳かに声を上げた。
「皇帝陛下の御成りで御座います」
静麗はどくり、と心臓が大きく動くのを感じた。
官吏達や芽衣が跪いたのを見て、静麗もゆっくりと膝をつき、両手を床につけると頭を下げ、皇帝陛下を迎えるために拝跪する。
さわさわと衣擦れの音が聞こえ、額づいた状態の静麗の前に人が立つ気配がする。
誰も言葉を発することなく、奇妙な緊張感が部屋に満ちた頃、閻が静麗に挨拶するように促す。
静麗は頭を下げたまま、緊張で声を震わせ、決められた口上を皇帝陛下に奏上する。
「貴人の位を賜りました、蒋 静麗でございます。今宵は皇帝陛下のお渡りを賜り、恐悦至極に存じます。陛下の臣として、お役目を果たさせて頂きたく存じ上げます」
決められた挨拶ではあっても、静麗が皇帝陛下に言いたいのは、こんな言葉では無い。
床につけたままの両手に力が入り、指先が白くなった。
静麗の挨拶を受けた皇帝陛下は官吏達に向け手を緩やかに振った。
閻と二人の官吏、芽衣は頭を下げ、両手を合わせて拱手をし、長い袖で顔を隠して皇帝陛下に身体の正面を向けたままの恰好で、しずしずと部屋から退出する。
物音一つしない静寂に、自分の呼吸音がやけに大きく聞こえると静麗は思った。
頭は下げたまま、そろりと目だけを動かし、部屋に皇帝陛下と二人きりになったのを確認した静麗は、思い切って顔を上げた。
皇帝陛下に許される前に顔を上げるなど、大変な不敬に当たるが、静麗にはそこまで気を回す余裕が残っていなかった。
長い月日近づくことも叶わなかった皇帝陛下は、不躾な静麗の態度を咎めるでもなく、ただ静かに佇み、静麗を見下ろしていた。
会いたくて…………本当は、―――会いたくて、会いたくて堪らなくて。
この一年、ずっと焦がれ続けてきた皇帝陛下の尊顔を、やっと近くで見ることが出来、静麗の息は詰まり、その瞳には涙が浮かんできた。
自分の心の中には諦めや、悲しみ、嫉妬、憎しみといった醜い悪感情の他に、恋しい、愛しい、という綺麗な思いが、まだこんなにも残っていたのかとぼんやり思う。
「浩然、……私、……」
静麗は呟くような小さな声で、目の前に佇む高貴な男性に声を掛けた。
眩いばかりに豪華な皇帝陛下の衣装にも負けない、麗しい面立ちの皇帝陛下はすっ、と目を細めると、懐かしいその声で―――静麗に告げた。
「蒋貴人。……余のことは皇帝陛下と呼ぶように」
静麗は跪いたまま茫然と皇帝陛下を見上げた。
皇帝陛下はふっ、と顔を静麗から背け、部屋の入口を見る。
「天子である余の名を呼べる者は、余の正妻である皇后、薔華のみ。……蒋貴人。位の低い側室の其方が、余の名を呼ぶことは許されぬ。弁えよ」
冷然と告げられた皇帝陛下の言葉に、耐え続けてきた静麗の心は砕け散った。
名ばかりの、忘れ去られた側室として、後宮の片隅で耐える事一年。
今宵の夜伽を命じられてから、皇帝陛下に言いたい事、聞きたい事が山の様にあったが、全てが無意味だったと知る。
皇帝陛下の中では、自分は最早、数多くいる側室の一人でしかなかったのだろう。
俯き、皇帝陛下の視線から表情を隠すと、静麗は皇帝陛下の煌びやかな沓を見つめながらゆっくりと頭を床に付け、叩頭礼をする。
「……はい。……皇帝、陛下……」
静麗が額づいた顔の下、古い飴色の木床に、雫が一つぽたりと落ち、染みを作った。
皇帝陛下は静かに足元の静麗を見下ろしていたが、徐にその腕を掴むと、立ち上がらせる。
静麗の腕を掴んだまま、無言で居間を横切ると、奥の寝室へと足を進めた。
皇帝陛下の側室の寝台とは思えないほど古びたそれに、二人は静かに横たわる。
その夜、静麗は一年ぶりに会う皇帝陛下―――夫に寝台に沈められ、伽を果たすことになった。