五. 専属侍女
静麗がどうしていいか分からずに俯き唇を噛んだ時、居間の外から穏やかな入室の許可を求める声が掛かった。
「お入りなさい」
女官長が応えると、扉が開き一人の女性が中へ入って来た。
薄い紅色の深衣を着た、年の頃は静麗より少し上に見える、優しそうな女性だ。
女性はしずしずと中へ入って来ると、深く頭を下げて揖礼をした。
「蒋様。この者が先程言っていた蒋様専任の侍女となります」
そう言うと、入って来た女性に向かって言う。
「蒋様にご挨拶を」
「はい。女官長様」
女性は静麗に向き直ると、控えめに微笑んだ。
「蒋様の侍女を仰せつかりました、丁 芽衣と申します。どうぞ、芽衣とお呼び下さい」
柔らかな、人を安心させるようなおっとりとした声の女性だ。
静麗は女官長との対話で固まっていた身体から力を抜いた。
「始めまして。静麗です。あの、宜しくお願い致します」
椅子から立ち上がり、芽衣に対して丁寧に揖礼を返す。
芽衣はそれに対しても、にこりと微笑んでくれた。
それを見ていた女官長は満足し頷くと、椅子から立ち上がった。
「では、蒋様。私はこれで失礼致します。後のことは、この丁に伝えてありますので」
そう告げると女官長は直ぐに部屋から出ていこうとする。
静麗は慌ててその背に声を掛けた。
「あの、何か分かったら教えて下さい。それと、私が会いたいと言っていたことを伝えて下さい」
「分かりました。閻殿に伝えておきましょう。では、失礼致します」
女官長はそう言い残すと素早く部屋を退出していった。
それを見送った静麗は肩を落として溜息を吐いた。
もしかしたら、当分浩然とは会えないのかも知れない。
落ち込んだ気分のまま、部屋の入口横で控えている芽衣を見た。
「あの、芽衣さん。私、ここに住むように言われたのですが、何か私でも出来る仕事はありますか」
何も仕事をせずに、ただお世話になるのは、平民の静麗には非常に心苦しい。
「まぁ、蒋様。私のことはどうか芽衣と呼び捨てで。それと、貴女様は客人としてお迎えすると聞いております。この月長殿で健やかにお過ごしして頂ければ、それだけで結構で御座いますわ」
「あ、あの。私の事も出来れば静麗と呼んでください。私は、平民なので様付けされるような者じゃないです」
「私は蒋様の侍女になりますので、敬称無しでお呼びすることは出来ませんが、……もし宜しければお名前で、静麗様とお呼びしても?」
静麗の表情を見ながら、その意を汲もうとしてくれる芽衣に、静麗は嬉しくなる。
「あ、はい。呼び捨てが無理なら、それでお願いします。それと、客人と言われても何もせずにお世話になるのは心苦しいです。何か出来ることはないですか?」
静麗の願いに芽衣は困った様に眉を下げ、言葉を探す様に言い淀んだ。
芽衣を困らせる気が無かった静麗は、その芽衣の様子に少し焦る。
「あの、無理ならいいんです。ごめんなさい。此処での決まり事が良く分からなくて。……ごめんなさい」
悄然と俯く静麗の姿に、芽衣は眉を下げて申し訳なさそうに言う。
「静麗様。此方こそ気を使わせてしまい、申し訳ございません。この橄欖宮の殿舎の中では、静麗様のお好きな様にお過ごしになさって下さい。貴女様を客人としてもてなす様に言われておりますので、何も気になさることは御座いませんよ」
芽衣の言葉は有り難いが、平民の静麗が何もせずに傅かれるのは、非常に居心地が悪い。
溜息を吐きたくなるのをぐっと我慢した。
芽衣は静麗の様子を見て、一人で落ち着く為の時間が必要と感じたのか、お茶を用意いたしますと言い、部屋から退出した。
宿を出てからまだそれほどの時間が経っていないはずなのに、静麗はこの展開の速さに付いて行くことが出来ず、ただ流されていた。
成人を迎えたばかりの少女にとって、この様な事態にうまく対処できるだけの経験も無く、女官長の言うがままとなっている事に、静麗は気付くことが出来なかった。
一人になっても、どうしようと考えるだけで、何一つ良い解決策を見つける事が出来ない。
如何に自分が子供であるかを感じ、今まで両親や浩然に守られてきたのかを実感した。
静麗が落ち込んでいると、芽衣が茶器を携えて戻ってきた。
慣れた手つきで優雅に茶を入れると、静麗の前にそっと置いた。
「静麗様、香りの良い茶葉が御座いましたので、それを淹れてみました。どうぞ」
「有難うございます。芽衣さん……芽衣」
敬称をつけようとして首を振られた静麗は、言い難そうにしながらも呼び捨ててみた。
それから茶器を手に取って、その暖かい温度を掌で包み込む。
そこで指先が非常に冷えていたことに気づいた。
浩然と引き離され、女官長という位の高そうな女性の相手をたった一人でして、緊張していたのだろう。
口元に茶器を持ってゆくと、芽衣の言葉通り馥郁とした香りが鼻に抜けた。
口に含むと円やかな口当たりの中に、爽やかな甘みと少しの苦みを感じる。
静麗が此れまでに飲んだことの無い上品なお茶だった。
「おいしい」
静麗は思わずといった感じで呟いた。
それを聞いた芽衣は嬉しそうに小さく微笑んだ。
「それはよう御座いました。後宮で使用する茶葉は香りの良い物が多いので、お気に召して頂けて嬉しいです」
「なんだか、申し訳ないです。私のような平民にこんな上等な品を」
「静麗様。そのような事御座いません」
静麗が申し訳なさそうにするのに、芽衣は首を振った。
静麗は暫く無言でお茶を飲んでいた。
芽衣は一歩離れた場所でそれを見守っている。
「芽衣さ……芽衣。あの、私少し疲れているみたい。少し休ませてもらってもいいかしら」
「はい。静麗様。寝室はあちらの扉の先になります。ご案内致しますわ」
「お願いします」
静麗の先に立ち芽衣が扉を開ける。
その先には小さな部屋があり、部屋の中には正面に一つ、右手に一つ扉があった。
芽衣は正面の扉を開け静麗を促す。
中には天蓋が付いた大きな寝台と箪笥、それと小さな卓が一つ、椅子が二脚置いてあった。
寝台も幾分古いものであるようだが、天蓋付きの物など始めて見た静麗は驚きに目を見張った。
「すごいわ。寝台に天井が付いてるの?この天井にも柱にもこんなに彫刻がされているわ。素敵。貴族のお姫様の寝台みたい」
「さあ、静麗様。此方に寝衣をご用意いたしますから、御着替えになって下さい」
芽衣は素直な反応の静麗を微笑ましく見ていたが、箪笥から新しい女性用の寝衣を取り出すと静麗に手渡した。
静麗はそれを受け取り礼を言うと、そういえばと芽衣に尋ねた。
「私の荷物が荷馬車で運ばれてきていると思うのですけど、何処に取りに行けばいいんでしょうか」
「まあ、そうなのですか。では、私が今から確認してまいりますわ。静麗様はお疲れでしょうから、どうぞ夕刻までのお時間、お休みになっていて下さいませ。」
静麗は申し訳なく思いながらも、寝台を見たことで疲れがどっと、出てきて早く休みたくて仕方がなくなった。
「じゃあ、申し訳ないですけど、お言葉に甘えさせてもらいます」
「はい。夕刻前にまたお伺いいたしますので、どうぞごゆっくりお休み下さいませ」
芽衣は丁寧に頭を下げると、静かに扉を閉めて退出した。
一人になった静麗は浩然から贈られた二本の簪を抜き取ると、丁寧に円卓の上に置いた。
そして渡された寝衣に着替える。
肌触りがとても良い。
きっと良い生地を使っているのだろうと考えながら、寝台に上る。
ぽふり、と倒れる様に横になると、今日の出来事がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
静麗は大丈夫、大丈夫、直ぐに浩然とも連絡がつき会うことが出来るはず、と自分に言い聞かせているうちに瞼が下がってゆき、そのまま眠りについてしまった。




