八. 孤影
キンッ―――
重い金属が弾かれる音が辺りに響き、次いでどさりと硬い物が土の上に落ちる音が聞こえる。
「はぁっ、はぁ、っつ、……はぁ、―――参った」
曇天の空の下、大きく拓けた場所の真中に立ち、深呼吸をして荒い息を何とか整えた浩然は、先程まで手に持っていた剣が弾き飛ばされた事を目で見て確認すると、少し痺れた手を押さえながら対面に立っている男にそう言った。
対面に立っていた大柄な男、郭 俊豪は、今自分が弾き飛ばした刃部分が潰された訓練用の剣を拾うと、それを近づいて来た部下に渡して、自分の使っていた剣を鞘へと戻した。
そして足早に浩然に近づくと「失礼致します」と声を掛けてその手を取り、怪我が無い事を確認して正面から浩然に向き合った。
「本日は此処までと致しましょう。ですが、陛下の剣技はこの短期間で随分と上達されました。元々素質があったのでしょう」
息を全く乱すことも無く、生真面目な顔でそう言う俊豪の言葉に、浩然は苦笑を浮かべた。
「世辞は良い。だが、余は元々平民で、田舎育ちであった故、皇都の貴族達に比べれば遥かに頑丈な身体であろうな。まぁ、其方達武官の相手には全くならなかったが」
「我々はそれが本分ですから。……それに、決して世辞ではないのですが」
俊豪が少し困った様に眉を下げていると、離れた場所で武官達と二人の様子を見ていた侍従の蘇が、盆の上に汗を拭う為の手拭いと冷たい水が入った玻璃の器を持って近づいてきた。
本日は朝議を終えた後、僅かな時間ではあるが皇帝の宮へと戻って来た浩然は、動きやすい簡素な服に着替えると、近衛武官数名と広い庭へと降り立っていた。
まだ昼までは時間があり、その隙間の時間に剣の教えを受けることにしたのだ。
以前より時間を見つけては身体を鍛えていた浩然は、皇都へ来る以前の、まだどこか少年の幼さが残っていた顔立ちから、大人の青年へと変わる過程にあった。
その、少年から青年へと変わる僅かな狭間の期間にしか持ち得ない、危うい色香の様なものが、汗に光る秀麗な顔立ちから、乱れた服の合間から覗く、若く張りのある肌から仄かに立ち昇っている様で、見守っていた女官や侍女のみならず、男性である侍従なども目のやり場に困った様に視線を伏せた。
周りの反応を見た蘇はその気持ちも分かるがと内心苦笑しつつ、皇帝としての立ち居振る舞い身や威厳を徐々に身に付け始めた、まだ年若い己が仕える人物へと声を掛けた。
「陛下。そろそろお時間で御座います。外朝に戻られる前にどうぞ湯をお使いくださいませ」
「分かった。……俊豪、ご苦労であった。其方も汗を掻いているだろう。此処は良いから湯を使ってまいれ」
周りが何を思っているかなど浩然は気にも留めずに、蘇から玻璃の器を受け取ると口を付け、冷えた水を一息で流し込む。
ごくりと水を飲み込む動きに合わせて喉仏が動き、その上を汗が一筋流れていく。
冷たい水が喉を通り越していく爽快感にほっと息を吐いた浩然は、手拭いを受け取ると汗を拭いながら俊豪を労い、先程まで剣を習っていた広い庭から殿舎の中へと入って行く。
最近は忙しく、剣や体術を習う機会も減っていたが、今日は久しぶりに思い切り身体を動かすことが出来た。
浩然は侍従に先導され湯殿へ向かいながら、数週間前の自分の誕生日の事を思い返していた。
あの日、静麗から自分が贈った婚姻の証である二本の簪が届けられた。
それを目にした時は、頭の中が真っ白になり、次いで目の奥が真っ赤に染まったような怒りとも悲しみとも言えない感情が爆発した。
―――静麗が俺の事を見限り、拒絶した
突き返された簪の意味を悟り、激情に駆られて簪を床に叩きつけそうになったが、結局そんな事は出来なかった。
激情が過ぎ去ると、後には虚無の想いしか残らなかった。
その後の数日は、静麗に拒否されたという事実が受け入れられずに、どうやって過ごしていたのかをあまり覚えていない。
だが、数週間たった今は、ある程度気持ちを整理する事が出来ていた。
静麗に恨まれているだろうとは、浩然も以前から考えていた。
自分が此れまで静麗に対して行ってきた数々の裏切りを思えば当然だろう。
例えそれが浩然の本意では無かったとしても、何も知らない静麗を散々傷つけてきた事実は消えない。
恨まれ、憎まれても仕方がないし、離縁したいと考えていても仕方がない。
そして、その静麗の想いが、目に見える形として浩然の誕生日に贈られてきただけだ。
だが、それぞれの想いはそうであっても、現状は何も変わることはない。
浩然は変わらず皇帝として皇宮に留め置かれ、静麗の心を取り戻す為に行動することも出来ないし、静麗の気持ちが浩然から離れていても後宮から逃がしてやる術も持たない。
―――……以前と違う所は、静麗の気持ちをはっきり知れた事だ
それに、と浩然は周りに控える者達に目を向けた。
―――今の後宮の状況で俺に気持ちを置いている方が、静麗には辛いだろう。特に、この先は皇后達の子が生まれてくる。……俺を憎むか、忘れ去った方が、静麗の為にはいい。静麗の今回の行動は、間違っていない
浩然は憂いを秘めた顔で目を伏せた。
―――静麗は俺の事なんか忘れた方がいい。でも、……俺は今でも……そして、これから先もずっと静麗を愛している
だったら、此れからも今まで通りに皇帝として力を付ける為に動き、静麗の身を守る為に行動すればいいだけの話だ。
何も、変わりはしない……
浩然はふっと息を吐くと足を止めて窓から曇天の空を見上げた。
厳しい冬が、もうすぐ皇都へやって来る。




