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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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七. 贈物

ブクマや評価、コメント等で応援して下さる読者の皆様、いつも本当にありがとうございます。誤字報告も大変助かっております。


【ご連絡】 第十一章の一部を改稿しています。大筋には変更ありません。

 


 夕刻までのわずかな時間を、天河殿から皇帝の住居である透輝宮 曙光殿へと戻り、一人私室の奥で休んでいた浩然ハオランは、この後に後宮で行われる宴へと臨席する為に、着替えをする部屋へと移り準備を行っていた。


 私室で寛ぐための衣服から、華やかな宴の場に出る為に用意されていた衣装へと、侍従の手によって着付けをされていく。

 豪華な衣装と装飾品を身に着け、最後に髪を整えられ、冠を被せられながら、浩然の頭には此れから赴く宴の事が占められていた。

 本日の後宮の集まりは、皇后の居場所である蝶貝宮 桃簾殿で行われる為に、全ての側室の出席が望まれていた。



 ―――……静麗ジンリーも、呼び出されているのだろうな……



 浩然は静麗に逢いたい、一目でいいからその姿を目にしたいという気持ちと、今の皇帝としての自分の姿を見られたくないという気持ちを同時に味わっていた。



 侍従のスゥーが冠の顎紐を結んだ後に一歩後ろに下がり、浩然の全体を確認してから拱手をして頭を下げた。

 それに対して小さく頷いた浩然は部屋から出る為に裾を丁寧に捌きながら歩きだした。

 部屋の外では何時もの様に近衛武官のグゥォ 俊豪ジュンハオが控えており、浩然が通り過ぎたあとから後ろに付き従って護衛をしている。



 自分の誕生日を祝って欲しい人は、この後宮の中に一人しかいない。

 だが、そのたった一人の愛おしい女は、今日という日をきっと苦痛とともに記憶するのだろう。

 浩然は手をきつく握り締めた。

 唯一の救いは、今日の宴が短時間で終わる予定な事だ。



 ―――その理由が、皇帝の子を懐妊している皇后や側室の身体を慮ってというのが、なんとも皮肉なものだな



 浩然は表情に出すこと無く、己に対して自嘲の冷笑を浮かべた。




 宴の最中、何時いつもの様に皇后の隣に座して、末席には一度も目を向けることをしなかった浩然は、そこに静麗がいない事には最後まで気が付かなかった。

 それを知ったのは、私室に戻り、侍従からの言葉を聞いた時であった。





 ◇◇◇





 長かった一日が漸く終わりを迎えようとしていた。


 早朝から今まで、気の休まる時の無かった浩然は私室で着替えを済ませると、椅子に深く腰掛けて身体の力を抜いた。

 他国からの使者や、初めて謁見を許した自国の高位貴族など、少しでも油断すると自分の足元が崩れるかもしれないという緊張の中で、何とか虚勢を張り通す事が出来たのではないだろうか。


 蘇が浩然の前にある卓の上に、淹れたての茶を供するとその爽やかな香りが浩然の心を少し穏やかにした。

 茶器を手に取り、指先から伝わる温かさを感じながら一口茶を口に含んだ。

 ほっと息をついた時に、部屋の外から入室の許可を求める声が聞こえてきた。

 この声は蘇の下についている侍従の一人だな、と浩然は考えながら蘇に頷いた。

 浩然が頷いたのを確認した蘇が許可を与えると、小さな箱を捧げ持った侍従がしずしずと入室してきた。


「どうしたのだ、この様な時刻に」


 皇帝が本日どれ程忙しかったかを知っている筈の侍従が、私室でやっと休めるという時刻にわざわざやって来るなど配慮が足りない、明日では駄目なのかと蘇は口調を少しきつくした。


「は、あの、……陛下に贈り物が、その、昼を過ぎた頃に届きまして」


 侍従のどこか迷ったような、途切れがちな声に蘇は首を傾げた。

 この侍従がこの様な要領の得ない物言いをする事等今まで無かった。

 不思議に思いながら、蘇は皇帝の事を一番に考えて言葉を発した。


「贈り物であれば、何時もの様に書簡に纏めておいて後程侍従長にお見せすれば良かろう。返礼の品などはその時に手配すれば良い。お疲れの陛下にわざわざ直接持ってくるなど、何を考えている?」

「申し訳御座いません。ですが、これは、……月長殿よりの贈り物、なのです」


 蘇ともう一人の侍従のやり取りを他人事の様に見ていた浩然は、突然出て来た月長殿という言葉を聞いて椅子から立ち上がった。

 その勢いで卓が揺れて茶が少し零れたが、浩然はそれにも気が付かずに侍従を凝視した。


「お前、……今、月長殿と申したか?」


 皇帝に直接問い掛けられた侍従はぴくりと身体を揺らした後、恭しく頷いた。


「はい、陛下。ジィァン貴人様は本日体調不良により宴に出席する事が出来ない為に、せめて贈り物をと、陛下が出立された後に後宮より届いたお品物でございます」

「何? 体調不良とは、どういう事だ? 容体は、静麗は病気なのか?」


 浩然は側室達が集まる場では、意識して静麗がいる下座に視線を向けない為に、宴に静麗が不在であった事に気が付けなかった。

 その事に歯がみしながら侍従に問いかけた。


「ご安心を、陛下。少し気分が優れないだけだそうです。夕刻に後宮の警護に当たっていた者より連絡があり、蒋貴人様のご無事は確認されております」

「そうか……」


 浩然は大きく息を吐くと手のひらで目元を覆い、顔を天井に向けて仰のかせた。



 ―――静麗の体調不良の原因は、きっと俺、だろうな……



 暫く瞑目していた浩然だが、顔を戻すと侍従に近より、捧げ持っている箱を両手でそっと受け取った。

 慎重に蓋を開けると、綺麗な刺繍が施された布に包まれた何かが入っていた。



 ―――この刺繍。静麗が作った物だ



 浩然は刺繍を指で優しく撫でると、ゆっくりと花弁を剥ぐように布をめくっていき、中から現れた物をその目に映した。






 浩然の顔がゆっくりと下がってゆき、完全に俯いた為に侍従達からはその表情を伺い見る事が出来なかった。

 だが、皇帝の様子がどこかおかしいと二人の侍従は戸惑った。

 そしてその箱の中に理由があるのかと中を覗こうとしたが、その前に浩然が蓋をしてしまい、蒋貴人からの贈り物が何であったか知ることはなかった。


「陛下? 如何なさいました?」

「下がれ」


 俯いたままの浩然から、平坦な声が命じてきた。


「ですが、陛下」

「下がれ」


 蘇が声を掛けたが、浩然は顔を上げずに同じ言葉を繰り返した。


「……畏まりました。部屋の外に控えております故、何か御座いましたらお呼び下さいませ」


 蘇はもう一人の侍従を促して部屋から退出し、外に待機していた近衛武官に目配せした。








 部屋に一人残った浩然は箱を抱えたままゆったりと歩きだすと窓際に置かれていた椅子に腰掛けた。

 そして漆黒の闇に包まれ、何も見えない庭に目を向け、その先にある何かを見るかの様にじっと眺めた。






「静麗……これがお前の、答え……なんだな」




 浩然はもう一度蓋を開けるとそこから二つの贈り物を取り出した。



 この二つの贈り物が、艶やかな黒の中で輝いていた光景が甦り、浩然はきつく瞼を閉じた。




「そうか、……俺は、もう、お前の中には居ない、のだな」




 浩然は急に立ち上がると、贈り物を掴んだ腕を勢いよく振り上げた。


 だが、その腕は振り下ろされる事はなく震え、その内に力無く垂れさがり、その手の中からコツン、コツンと音を立てて二つの贈り物が硬い床へと零れ落ちた。







 それは、幸せだったあの日々、愛おしい妻の髪を彩っていた二本の簪であった。








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