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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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六. 怱忙


 

 季節はそれぞれの気持ちを置き去りにしたまま緩やかにすすみ、気が付けば浩然ハオランの誕生日がもう間近に迫っていた。



 浩然は自分の誕生日などはどうでも良いと考えていたが、浩然が即位後に初めて迎える皇帝の生誕の日という事もあり、朝廷や皇后であるヂュ 薔華チィァンファの意向で盛大な祝いの宴が執り行われる事となった。


 朝から昼すぎにかけて天河殿では他国の使者なども招いて行われ、皇帝が健在の上、皇后も懐妊中であり、最早疫病の影響は何処にも無く寧波ニンブォは安泰であると他国に改めて示す為の場とされた。

 更に午後からも後宮では皇后の宮で祝宴が執り行われる予定だ。

 後宮で行われる宴は皇后が主催として開かれるために全ての側室の出席が望まれていた。

 浩然はそれら全てが煩わしいと感じていたが、その宴の重要性も分かっていた為に黙って臨席することを了承した。





 浩然は天河殿にある皇帝の執務室の豪華な椅子に腰掛けて、机の上に置かれた式典に関する書類を確認していたが、皇帝に対する献上品の項目が目に入った所でふいに昨年までの誕生日の事を思い出し、筆を持つ手を止めると目を細めた。


 昨年まではその日はルゥオ家で祖父母や静麗ジンリー、それに友人達が混じる事もあったが、親しい者達に囲まれてとても幸福な一日を過ごしていたのだ。

 愛おしい静麗と一日を共に過ごすことが出来た、とても温かく大切な、かけがえのない思い出―――



「……陛下?」


 筆を持ったまま手を止めていた浩然を訝しみ、官吏が小さく声を掛ける。

 浩然はかすかに肩を揺らすと何事も無かったように筆をすすめた。



 ―――去年、静麗が贈ってくれた物は……



 大国の皇帝となった浩然には手に入らない品物の方が少ない。

 だが、どれ程高価で貴重な物であっても、あの日々に静麗から贈られた物と比べる事など出来ない。


 もう二度と手に取る事が出来ない、静麗からの贈り物の数々を思い出し、浩然は奥歯を噛みしめた。





 ◇◇◇





 皇帝の生誕日を祝う宴が執り行われる、その当日。


 皇城には、寧波ニンブォの高位貴族は当然の事、属国からの使者だけではなく、水面下では常に揉めて駆け引きが行われている大国からの使者も多数訪れていた。


 自国から持参してきた王からの親書や贈り物などを新皇帝陛下に献上する為に、祝宴に先駆けて謁見の場にて皇帝に御目通りする事となっていたのだ。

 皇帝即位の儀礼では急な事もあり、使者にしろ献上品にしろ、満足いくものを用意することが出来なかったが、今回は国の威信をかけて各国が準備をしていた。




 皇帝が代替わりしてから初めてその姿を目にする事になる者が多いせいか、謁見の間にはどの様な人物が出て来るのかとざわついた雰囲気が場を覆っていた。

 其処此処そこここでこそりこそりと密やかな囁き声が聞こえる。


 使者達はその国の高位貴族が名を連ねており、まだ若い平民上がりの皇帝がどれ程の人物なのか、ある種の侮蔑を持って待っていた。

 また、後ろ盾の無い傀儡の皇帝を、どうやって自国の為に利用できるかと考えていた。

 あるいは、高位貴族である自分が、半分は平民であった他国の皇帝に跪かなければならない事に微かな屈辱を感じていたのかもしれない。




「皇帝陛下、皇后娘娘がお入りになられます」


 ざわついていた謁見の間の入口より一人の侍従が声を上げた。

 その声を聞いた者達は一瞬息をつめ、張り詰めた空気が場を包みこみ、全ての者が膝を折り平伏していく。


 皆が頭を下げたその前を、さわさわとした軽い衣擦れの音が通り過ぎていく。

 その後に皇帝と皇后の座する高台を登る微かな足音が聞こえてくる。

 暫くすると、謁見の間に平伏する者達へと涼やかな声が掛けられた。


「面を上げよ」


 寧波の高位貴族や各国の使者はその低音でありながら透き通った美しい声に陶然となりかけたが、静かに身体を起こすと顔をあげて皇帝と皇后を仰ぎ見た。


 その刹那、謁見の間にはどよめきが起こった。


 思わず声を上げてしまった大国の使者達は、その様な失態を犯した己を恥じて、顔は前に向けたままで素早く周りに視線を飛ばした。

 だが初めて皇帝や皇后の姿を間近で見た者達は、多かれ少なかれ動揺を顔に張り付けていた。

 しかし己の矜持で平静を装っている事が見て取れ、自分だけではなかったと密かに安堵していた。


 使者達は改めて皇帝と皇后を見上げた。


 まず驚いたのは、その美貌だ。

 以前より皇后の美しさは近隣諸国にも伝わっていたが、男性である皇帝までもがこれ程に優美な姿をしているとは思ってもいなかった。

 即位の儀に出ていた自国の使者からは、大変秀麗な容姿をしていたと報告を受けていたが、これ程とはと衝撃を受けていた。

 だがその美貌にばかり目がいっていた使者達の中で、鋭い観察眼を持つ者は己の間違いに気が付き始める。


 優美な微笑みを浮かべているまだ年若い皇帝だが、その目の奥には背筋がぞわりとくる何かが宿っていた。

 そしてその眼差しが、壇上から居並ぶ使者達に静かに降り注ぐ。


 此れだけ多くの他国の使者を前にしても臆する事も無く、優雅に泰然と微笑んで対応している生まれながらの皇族の様な皇帝の振る舞いに、どこが田舎の平民あがりなのだ、と使者達は侮っていた意識を素早く切り替える。

 この皇帝の柔和な顔に騙されてはいけない。

 誰かがごくりと喉を鳴らす音が、静かな部屋の中で小さく聞こえた。





 ◇◇◇





 天河殿で執り行われた浩然の生誕の日を祝う宴は全てが恙無く終了した。



 朝から自国の高位貴族や他国の使者達と謁見を行い、その後に祝宴に臨んでいた浩然は少し疲れを覚えて周りに侍る近習達に気づかれぬように小さく息を吐いた。


 現在は天河殿の控室に戻ってきていたが、この後夕刻からはまだ後宮での宴がひかえているのだ。

 浩然は重く感じる身体を椅子から起こすと、隣の椅子に腰掛けていた薔華に声を掛けた。


「皇后、其方は身重だ。無理をせずに後宮に戻り暫し休むが良い」

「はい。……陛下は如何なされますか?」


 皇帝の正妻であり皇后である薔華は、他国の使者が多く出席する為に懐妊中ではあるが天河殿まで出向いていたのだ。

 出来るだけ負担の無い様にと、全ての式典に出るのではなく、宴の最初と最後のみであったが。


「余もこの後は透輝宮に戻る」


 皇帝の宮に戻るという浩然の返事を聞いた薔華は、暫し逡巡した後に小さく声を上げた。


わたくしも、……陛下の宮へご一緒しては、いけませんか?」

「……」


 薔華からの問いかけに、浩然は言葉を詰まらせた。


 浩然の気持ちとしては、自分の私室がある殿舎に後宮の女を入れる事は許容できない。

 だが、薔華はただの後宮の妃ではない。

 皇帝の御正室であり、皇后だ。

 そして国内屈指の大貴族が生家で、その後ろ盾は未だに皇帝の権力の一端しか持たない浩然に太刀打ち出来るものでは無い。


 何と言えば薔華が納得して引き下がるのかと、浩然は言葉に迷った。

 そして浩然が迷いながらも口を開こうとした時、薔華が静かに頭を下げた。


「申し訳ございません。……陛下もお疲れの所、我儘を申しました。私は後宮で陛下をお待ちしておりますので、どうか陛下はそれまで宮でお休み下さいませ」

「あ、ああ。……其方も夕刻までは後宮でゆるりと休むが良い」


 浩然は少し戸惑った様にそう言うと、椅子に腰掛けて浩然を見上げている薔華をその場に残して控室を出て行った。

 その背を座ったまま見送った薔華は目を伏せて小さくその名を呼んだ。


「浩然、様」





長らく連載が止まり申し訳ありませんでした。

活動報告にも書きましたが、久しぶりすぎて小説の書き方を忘れていました。

更新速度は遅くなると思いますが、気長にお待ちいただければ嬉しいです。

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