五. 艶羨
浩然は午前の政務を終えて、遅い昼餉を摂る為に皇帝の殿舎である透輝宮 曙光殿に戻ろうと椅子から腰を上げた。
其処へ一人の高級官吏が執務室へとやって来た。
官吏は浩然に恭しく拱手すると、頭を下げたまま神妙な面持ちで言葉を発した。
「本日は此方に記しております葉貴人の元へと、陛下にはお渡りをお願い致したく、御前に参りまして御座います」
最近は全く強要される事が無かった後宮へのお渡りを言い渡された浩然は、不快感に顔を歪めそうになるのをすんでの所で耐えた。
「皇后を筆頭に高位の側室達が数人懐妊している今、何故、低位である貴人位の側室の元へ、余がわざわざ赴く必要が有る?」
官吏は浩然の問い掛けに、視線を下げたまま言葉に窮した様に声を詰まらせながら答えた。
「隣国と国境沿いで問題が生じていることは、陛下も既に御存知で御座いましょう。その隣国と接している領地を治めているのが件の葉貴人の後ろ盾である葉家なのです。……葉家は商家としても有能で、他国との繋がりも深く、朝廷としましても此度の問題で協力を申し付けているので御座いますが、この一族は少し曲者が多く、朝廷の政策にも非協力的な所が御座いまして……」
「……余に、機嫌をとってまいれ、と?」
浩然が皮肉な表情で官吏を見ると、官吏は更に深く頭を下げた。
「どうか、国の為にも葉家の協力を仰いで頂きたく」
官吏の言葉に浩然は眉を寄せて暫し考えた。
―――葉家は、確かに国境沿いを守る要の場所を治めていたな。それに貴族としては珍しく、古くから商売も盛んに行っていた一風変わった貴族だった筈だ……
「…………良いだろう」
浩然の答えに官吏はほっとした表情を浮かべたが、続く浩然の言葉には少し眉を寄せた。
「だが、これは本来お前達朝廷の仕事では無いのか? 皇帝の夜伽を利用せねば、一貴族を動かせぬとは、情けないことだな」
「……陛下におかれましては、大変申し訳なく」
「その様な言葉は不要だ。其れよりも、この様な無能な事が再び起こらぬ様に精進せよ」
「…………は」
官吏は浩然の言葉に苛立ちを感じたようだが、其れを隠す為に深く頭を下げるとその場から静かに退出した。
「陛下。お気持ちは察しますが、余り朝廷を刺激せぬ方が良いのでは」
自分から声を掛けてくることなどほぼ無い郭 俊豪が、珍しく浩然に話し掛けてきた。
未だに確固たる後ろ盾も無く、立場的に弱い平民上がりの若い皇帝の事を心配しての言葉だと分かっている浩然は、ふぅと、自身を落ち着ける為に息を吐くと俊豪に向き直って肩を竦めた。
「分かっている。……だが、無能者の為に余が後宮に向かわなくてはならなくなったのだ。少しぐらい嫌味が出ても致し方あるまい」
そう言うと、浩然は今宵のお渡りに思いを寄せて深い溜息を吐いた。
◇◇◇
夜に葉貴人の元を訪れ、今まで側室達に対応していたと同様に知りたい事を聞きだした浩然は、慣れた様子で伽を済ませた。
己の意志では無くとも多くの女性と閨を共にしてきた浩然にとっては、それは最早簡単な仕事であった。
何時もの様に己の衣装はほぼ乱すことも無く、葉貴人のみを乱れさせて短時間で伽を終えた浩然は、身支度を整えると直ぐに葉貴人の殿舎を後にした。
―――変わり者の一族とは聞いていたが、確かに少し貴族らしからぬ姫だったな
浩然は疲れた様に顔を伏せて曙光殿に戻る為に皇帝専用の豪華な輿に揺られていた。
―――だが、必要以上に纏わりつかれる事も無く、有益な情報を得る事も出来た。それだけでも、何時もの伽よりは多少ましだと思わなければな……
浩然が疲れた顔でそんな事を考えていると、側に付き従っていた侍従の一人が戸惑いがちに声を掛けてきた。
「陛下。此れからは伽に側室を陛下の宮へと召し上げられては如何でしょうか。陛下が尊い御身で態々この様な後宮の奥にある殿舎まで来られずとも……それでなくとも最近の陛下はお休みになられる時間がかなり少ないのですから」
浩然は侍従の言葉に片眉を上げて口を開いた。
「側室は後宮から出ることは出来ぬのであろう?」
「はい。本来は皇后娘娘以外の側室様方は銀星門より出る事は叶いません。ですが、夜伽の場合のみ可能となります。中からは開けられぬ専用の馬車に乗る事によって、伽の為に陛下の宮までなら来ることが出来るのです。……陛下。此れよりはその様に取り計られては如何で御座いましょう。その方が、陛下のご負担が軽くなる事と存じ上げます」
侍従が皇帝の身体を心配して出た言葉だとは分かっているが、浩然には受け入れられない提案だった。
浩然は暫く黙っていたが、本日周りに侍る侍従や武官達は信頼が置ける者達である事を見て取ると、ふぅと息を吐き、重い口を開いた。
「皇帝の殿舎は、言わば余の私的な空間だ。その中でも余の寝室は、余が唯一唯の男に戻ることが出来る場所だ。その場所へ、後宮の女達を入れる事は出来ない。入る事が出来るのは……」
そこで口を閉ざした浩然は後宮の最奥へと視線を向けた。
周りに控えていた郭 俊豪達近衛武官や、侍従の蘇等はその視線の意味に直ぐに気が付き、ぐっと言葉に詰まった様な顔をしたり、俯いたりした。
後宮の最奥を見据える皇帝のその横顔は、最近身に付け始めた皇帝としての威厳と、冷たく感じるほどの冷然とした無表情ながらも、どこか、砕ける寸前の透明な氷の様にも見えた。
たった今、己の側室―――妻をその腕に抱いて来たばかりの男性がする表情では決して無かった。
後宮の側室達の元へ通うという事が、この平民から至高の存在である天子と成った青年にとっては、喜びでは無く苦しみに繋がっているのだという事を、近習達は改めて認識する事になった。
それは皇后や数多の側室達を娶った日から今日まで、どれだけの女性をその腕に抱こうとも、皇帝の根底に有る変わらぬたった一つの強固な想いの為なのだろうと侍従達は感じた。
側室を召し上げる様に進言した侍従は皇帝の変わらぬ想いに、浅慮な事を言った自分を恥じる様に顔を伏せた。
浩然はそんな侍従に目を向けると嘆息し、目を閉ざした。
―――世の男達は俺の事を羨ましく思っているかもしれない。たった一人の男の為に、この後宮には身分高い貴族の美しい女達が集められ、その女達を皇帝は全て己のものと出来るのだから……
浩然は今出て来たばかりの後宮の巨大な門をちらりと振り返った。
―――後宮の女達は、皇帝の寵を得るために美しく競い合っていると思うかもしれない。……けれど実際は反対だ。俺こそが女達に媚びを売っている。平民出の若く後ろ盾の無い皇帝など、貴族や朝廷に好きに扱われて終わりだ。それは皇都に着いて最初の一月で嫌という程身に染みて分かった。だが俺は奴らの傀儡で終わる積りは無い。……いや、俺一人だったらもう諦めていたかも知れない。けれど―――後宮には静麗が居る…………俺の愛する唯一人の妻が―――
浩然は手を強く握りしめた。
―――必ず力をつけて皇城を掌握して見せる。その為ならどんな事も厭わない。俺一人で満足していれば、大人しく従っていたかもしれないものを…………閻達の間違いは静麗を巻き込んだことだ
浩然は俯きながら静かに瞑目した。
―――静麗を巻き込んだ事。……いずれ必ず後悔させてやる




