四. 陰事
朝廷内で着々とその存在感を示し、立場を固めていた閻 明轩は、ある日、回廊を歩いている所で一人の官吏に呼び止められた。
主に後宮に関する事柄を担当していたその官吏は、閻に一通の手紙を見せた。
それを受け取り無言で読んでいた閻だが、全てに目を通すとその手紙を折り畳み、官吏へと視線を向けた。
「この手紙の存在は、貴方の他に誰が知っていますか?」
「私の他には、後宮の女官が数名と私の部下が一人のみですね」
「では、この手紙に関しては、無かった事に致しましょう」
そう言うと、閻は折り畳んだ手紙を―――静麗からの皇帝への拝謁願いを懐へとしまった。
「……宜しいので?」
「今陛下に下手に動かれては面倒ですからね。もしこの先も同様の願いが届けられても、其方で処分して下さい」
閻にそう言われた官吏は少し考える様な素振りを見せたが、今朝廷内で時の人となっていた閻に逆らうのは悪手だと感じたのか、頷き了承を示した。
閻は満足そうに頷くと、官吏をその場に残して歩き去った。
その後ろ姿を官吏は暫く見詰め、ぽつりと呟いた。
「まぁ、もし私が咎められる様な事態となれば、閻からの指示であったと言えば良いか……」
◇◇◇
浩然は人払いした私室の中で、己の近衛武官である郭 俊豪より静麗に関する報告を受けていた。
俊豪は伝雲や数名の部下に交代で月長殿の周りの警護をさせている事を既に浩然には打ち明けていた。
しかし同時に、近衛武官の数も疫病の影響で減っており、万全の体制では無い事実も浩然に告げていた。
後宮内には皇后や高位の側室達等、優先して守らねばならない者達が大勢いる。
皇帝の想いは別にして、事実上最下位の側室である静麗を守る為に、少ない人員をこれ以上割くことは厳しかったのだ。
当初はそんな俊豪の行いを、静麗が逃げださない為の監視かと疑っていた浩然だが、長期間共に過ごしていく中で俊豪の人柄に触れて、少なくともこの近衛武官は本当に静麗を心配しているのだと信じる事が出来た。
しかしそれは純粋な好意だけでは無いとも感じていた。
だがそれで少しでも静麗が安全に過ごせるのならと、浩然は俊豪の独断ともいえる行為を許し、引き続き静麗を出来る限り護衛する様にと改めて命じた。
◇◇◇
「公主が月長殿に……?」
ある時、浩然は俊豪から伝えられた月長殿での変化に眉を寄せた。
春燕公主は浩然にとっては異母妹となるのだが、身内という意識は浩然には全く無かった。
己の家族は静麗と祖父母のみで、例え血の繋がりがあろうとも皇族達に親しみを持つことは浩然には出来なかった。
「その公主は、どの様な人物だ? 静麗に害をなす様な事は?」
皇都で生まれ育った気位の高い皇族や貴族に対して、此れまでにも対応に苦慮してきた浩然は、静麗に近づく公主に不安を感じてそう尋ねた。
「問題御座いません。蒋貴人にとても好意を寄せているご様子です」
春燕公主がまだ十三歳の少女である事や、母や姉を亡くし、静麗を姉と慕っていると説明を受けた浩然は頷いた。
「そうか。……後宮内に、一人でも静麗の味方が出来たのは有り難い」
浩然はふっと息を吐き出すと、引き続き静麗の周りに注意を払う様に命じた。
しかしその翌日に、更に月長殿に異変が起きていた。
「御用商人が月長殿に?」
―――静麗は、後宮内で買い物が出来るぐらいには、不自由なく過ごせているという事か?
ほんの少し安堵した浩然だったが、その御用商人がまだ若い男だと聞くと、微かに眉を寄せた。
―――俺は散々静麗を裏切っておきながら、他の男が少し静麗に近づいただけで、これ程不快な気持ちになるなんて、……なんて勝手なんだろうな
作り物めいた無表情で報告を聞く浩然を、侍従達が不安そうに見ていたが、浩然は手を振って何でもないと伝えた。
静麗の事を日々想いながらも、皇帝として未だに力の無い今の自分では会いに行くことも出来ず、その代わりと言わんばかりに御用商人が足繁く月長殿に訪れていると報告を受けても、眉を寄せてそうか、としか言えなかった。
静麗に近づく男は全て排除したいと叫ぶ本心を押し殺し、浩然は苛立ちと焦燥を募らせていた。
しかしその後、静麗が月長殿の近くに入宮した貴人位の側室と接触していたと報告を受けた頃には、国内外で問題が多数噴出しており、更には隣国との小競り合いが頻繁に起きていたこともあり、朝廷は勿論、浩然もその対応に追われて此れまで以上に激務の日々を送る事となる。
そんな日々を送っていたある日、天河殿の皇帝の執務室へと皇后である朱 薔華が浩然を訪ねてきた。
後宮に住む他の側室達は銀星門から先へと出る事は叶わないが、唯一後宮から出る事が許されている皇帝の御正室である薔華は、侍女や武官を多数引き連れて皇帝の執務室へと現れた。
突然現われた薔華の姿に浩然は驚いたが、そう言えば数日前に執務室へと赴きたいと言われ、許可を出していた事を思い出して内心で苦い顔をした。
あの時は、忙しい日々の中でも僅かな時間を見つけて薔華に会いに行き、疲れ果てて頭が余り回っていない状態でうっかり薔華の申し出に許可を出してしまったのだ。
大貴族である朱家が後ろ盾の薔華を蔑ろにする訳にもいかず、頻繁にご機嫌伺いに訪れていた浩然だが、国家的な行事等の特別な時以外には、後宮から出る事に此れまで一度も許可を出さなかった。
薔華には子を身籠った大事な其方の身の安全の為だと言い聞かせていたが、実際は薔華が何度も皇帝の殿舎に訪れたいと願っていたのを回避する為であった。
大勢の供を引き連れて、豪華絢爛な衣装で執務室へと現れた薔華に、浩然は舌打ちをしそうになった。
―――この忙しい時に
浩然の内心に気付くこと無く、薔華はにこやかな笑顔を浮かべて執務室へと入って来た。
「陛下。執務お疲れ様で御座います。少し休憩されては如何でしょう? 菓子をお持ちいたしましたの。宜しければご一緒して下さいませんか?」
子を孕んでいるとは思えない程に愛くるしい微笑みを浮かべて、皇帝を休憩へと誘う薔華の様子に、周りに詰めていた文官達は顔を見合わせて皇帝の意向を伺う様に浩然に視線を向けた。
誰もが皇帝が薔華の意に沿って共に休憩をすると思っていたのだが、浩然は椅子から立ち上がると首を緩やかに振った。
「皇后。この様な場所は其方の身体に良くない。其方は直ぐに後宮に戻るが良い」
「ぇ? ……で、ですが、私は陛下と少しでも共に有りたいと……」
薔華が悲しそうに眉を下げ、窺う様に浩然を見上げる。
「其方は今、この国で一番大切な身体をしているのだぞ。迂闊に許可を出した余が悪いのだが、万が一にも何かが起こっては、余は平静ではおれぬ。どうか余の為にも安全な後宮で大人しくしていておくれ」
―――そうだ。今の余には其方の産む男児が、何よりも必要だ。どんな事があっても、なくす訳にはいかない
「陛下。……浩然様、分かりました。そうですわね。私達の大切な御子を守るためにも、私は後宮に戻りますわ」
薔華は己の腹に手を当てて幸せそうに頷いた。
浩然はそんな薔華の姿を冷静に観察し、優しく肩を押すと執務室の外へと送り出した。
浩然は執務室の入口に立ち、遠ざかる華やかな一団が見えなくなるまでその場に佇んでいた。
―――皇后。……其方の胎の中にいるのは、朝廷や貴族達の醜い妄執によって生み出された、泡沫の皇帝である余を開放する、大切な、大切な子だ。だが、……俺は――――――




