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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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三. 気散

 


 浩然ハオランが皇城へ入ってから四月が過ぎたある日の夜更け、皇帝専用の豪華な輿に乗り込むと周りを近衛武官や侍従達に囲まれて後宮へと赴いていた。



 浩然が此れまで後宮でお渡りに向かった先は、銀星門に程近い場所に存在する皇后や高位の側室達の宮がほとんどであった。

 だが浩然はこの夜、静麗ジンリーの誕生日に月長殿を訪れて以来初めて後宮の奥までやって来た。

 向かう先は、最近入宮したばかりの卓という、下級貴族の娘である貴人位の側室の殿舎だ。



 辺りは漆黒の闇と静寂に包まれていて、側室達が住む宮へと続く回廊の吊灯籠の淡い灯りが、遠くに仄かに浮かんで見えるだけだった。


 浩然は輿に揺られながら雲一つ浮かんでいない澄んだ夜空を見上げた。

 其処には満天の星々と煌々と輝く月の光が、まるで降り注ぐように鮮やかに浩然の目に映った。



 美しく輝く月を見ると、浩然の心には何時もあの日の情景が思い出される。

 婚儀の日に二人で見上げた、美しい満月が。



 浩然は緩やかに首を振ると感傷を振り払った。

 そして目前に迫った殿舎を見据えた。


 夜目にも美しい上衣を羽織った浩然は前を見据えたまま輿に揺られ、宮の門を潜り抜けてゆく。





 ◇◇◇





 グゥォ 俊豪ジュンハオは皇帝と共に卓貴人が住む宮の門を潜り抜けようとしたが、ふと何かに気付いた様にその場で足を止めた。

 そして、何が己の気を引いたのか確かめる為に門の外へと戻り、歩を進めて辺りを見回した。



 その時、視界の端に鮮やかな領巾が翻り、宙を舞うのが見えた。


「あれは?…………っ!」


 俊豪は振り返ると今宵同行させていた妹の名を叫んだ。


伝雲ユンユン!」


 兄の抑えてはいたが鋭い声に反応し、伝雲は直ぐに俊豪の側へと駆け寄る。


「今、あの庭園の中にジィァン貴人が居られたが、月長殿とは反対の方角へと走り去られた。……このままでは拙い。直ぐに後を追えっ!」

「はっ」


 兄の命を受けた伝雲は、俊豪が指差した方向へ向かいその場から飛び出した。

 遠ざかるその後ろ姿を厳しい目で見詰めながら、俊豪は手を握り締めた。


 月長殿の周りを警護していると言っても、昼夜を問わず常に見張り続ける事は今の人数では無理があった。

 まさかこの様な夜更けに殿舎の外へと一人で出歩いていたなど、俊豪は勿論、伝雲も気付いていなかった。



 ―――どうか、短慮を起こさないでくれ。陛下は、貴女の無事を何よりも願っている。その為に此れまでどれ程ご自身を犠牲にされて来られたのか……頼む。陛下の為にも無謀な真似はしないでくれ



 俊豪は伝雲が走り去って行った方角を厳しい目で見詰めたまま、年若い少女に心の中で願った。




 ◇◇◇




 卓貴人の殿舎の中へと入った浩然は、高位の側室達の華やかで荘厳な殿舎との違いを感じ、目を眇めた。


 地方の下級貴族でしかない卓家は、本来なら後宮へ娘を入れられる程の家格では無かったのだ。

 疫病の影響で、皇都の高位貴族の若い未婚の姫が少なかった事もあり、かろうじて定員の無い貴人位として後宮に娘を潜り込ませる事が出来た卓家に与えられた殿舎の中は、調度品一つとってもその地位や権勢が量れる物だった。



 殿舎の中では卓貴人の侍女達が皇帝を待ちわびており、皆が頬を染めて期待を込めた瞳で跪き、前を通り過ぎる皇帝に頭をゆるゆると下げながらも、少しでもその姿を目に焼きつけようとするように見詰めていた。

 下位貴族に仕えている侍女達にとっては、この様な近さで皇帝と対面出来るなど、夢の様な事態なのだろう。


 浩然はそんな視線の中でゆっくりと歩を進め、一番奥で待つ卓貴人の前で足を止めた。

 卓貴人は浩然の前に跪いて、叩頭していた。


「……面を上げよ」


 浩然が声を掛けると卓貴人はぱっと顔を上げ、初めて間近で見る皇帝の顔に興奮した様子を見せた。


「陛下……あぁ。……お会いしとう御座いました。わたくしずっと待っておりましたわ」


 卓貴人が麗しい皇帝の尊顔を陶然とした表情で見上げ、媚びる様に甘い声を出す。

 だが、返ってきた皇帝の返事は、酷く冷たい響きを伴っていた。


「誰が喋って良いと申した?」

「えっ?」


 浩然が冷然とした表情のまま己を見下ろしている事に気付いた卓貴人は、戸惑った様に目を瞬かせた。


 卓貴人の元へは今朝、女官長自らがわざわざ訪れ、今宵陛下がこの殿舎に来ることを告げていた。

 後宮の奥の方に位置する、この辺りの殿舎を賜っている下級の側室の元へと皇帝がお渡りするのは初めての筈だ。

 女官長が帰った後にその事に思い至った卓貴人は、余りの僥倖に気を失いそうになったが、それ以上に優越感を感じていた。

 いつも一緒にいる同じ貴人位の側室達の羨む顔を想像しては悦に入り、夜が来るのが待ち切れずに準備をしていたというのに、この皇帝の態度は一体どういう事なのだろうと卓貴人は困惑した。


「陛下? ど、どうなさいましたの? 今宵は私の元へ、お渡り下さったので御座いましょう?」


 卓貴人が取り繕う様にそう言いながら立ち上がり、浩然に駆け寄る。


「陛下。お慕いしております。私の元に来て下さり、嬉しいですわ」


 卓貴人がそう言いながら、自分が一番美しく見える笑顔を作り、浩然の背にしなやかな両手を伸ばして、その顔を浩然の胸にうずめようとした、その瞬間。


「きゃっ」


 悲鳴が上がると共に、卓貴人は床へと倒れこんだ。

 浩然が卓貴人の手を振り払ったのだ。


「な、何をなさいますの、陛下!? か弱い女性に対して、この様な」


 卓貴人が倒れたままの姿で浩然を見上げて声を上げるが、浩然はその場から動かず上から静かに睥睨していた。


「誰が、立って良いと申した? 天子である余の身体に触れて良いと申した?」

「え?……で、ですが。私は陛下の側室ですわ。夜伽で陛下に触れる事も、許されている筈です! それなのに、この様な乱暴な真似……如何に陛下といえども許せませんわ!」


 卓貴人は混乱しながらも、生来の気の強さで皇帝に対して非難を口にしてしまった。

 下級貴族出身の、下位の貴人位の側室ごときが、皇帝に対して許さないと言ってしまったのだ。

 卓貴人の侍女達はひぃっと声なき悲鳴を上げたが、愚かな卓貴人はそれに気付かなかった。


 浩然は小さく首を傾げてこの憐れな側室を見下ろした。


「誰が其方そなたに夜伽を申しつけた? その様な気持ち、余には欠片も無いわ」


 皇帝の言葉に卓貴人は愕然とした顔で、そんな筈は、と呟いた。

 そして今朝の女官長の言葉を必死に思い出す。

 確かに、女官長は今宵陛下がこの殿舎に来るとは言ったが、夜伽の申し付けは受けていない。

 卓貴人は茫然と皇帝を見上げた。


「そして、其方は最早余の側室では無い。其方はこの国の最高位である皇帝に対し、不敬を働いた。よって側室の位を剥奪し、後宮より退去する事を命じる」

「なっ!?」


 卓貴人が驚きの余り目を大きく見開き、唇を震わせた。


「何故で御座いますか、陛下!? 許しなく話し掛けたからで御座いますか? 立ち上がったからで御座いますか? 玉体に触れたからで御座いますか!?」


 卓貴人が髪を振り乱し問いかけてくるのに、浩然は口角を引き上げて笑みを浮かべた。


「其方は、余の一番大切なものを傷つけた。……余が、何よりも大切にしている、掌中の珠を」

「陛下の、大切な物?」


 卓貴人は呆けた様に繰り返した。

 浩然はそんな卓貴人を一瞥いちべつした後、周りで驚きに固まったままの侍女達と卓貴人をその場に残し、踵を返すと立ち去ろうとする。


 だがそんな浩然に気付いた卓貴人は、はっとして、なりふり構わず床を這いずって近寄り、浩然の長い裾に縋りついた。


「お待ちを、陛下! 何かの間違いで御座います! 私は、陛下の大切なモノを傷つけたことなどはっ、陛下に仇なす事は何もしておりません! どうか、お考え直しを!」


 叫びながら浩然にしがみ付く卓貴人を、近衛武官達が無情にも引き離していく。


「陛下っ、陛下!! 嫌っ、お待ちになってっ!!!!」


 涙を流しながら浩然に手を伸ばす卓貴人の悲痛な声に、浩然は部屋の入口前で足を止めると緩やかに振り返った。


「陛下……」


 美しく整えられた顔は涙で化粧が剥がれ落ち、髪は乱れてぼさぼさで、近衛武官達に取り押さえられた折に乱れた衣装等も、とても後宮に住む皇帝の側室とは思えない有様だった。



 浩然は卓貴人に困ったような顔で微笑んだ。

 卓貴人は浩然が振り返り、優しい笑顔を見せた事にほっとした様に力を抜き、同じように笑顔を浮かべた。



「卓貴人、安心するが良い。直ぐに後宮から追放したい所ではあるが、半月の猶予を与える故、その間に全てを清算し、出て行くように。そして此度の不敬罪に関しては、其方の追放のみで由とする。其方の実家や親族に咎は無いものとしよう」



 卓貴人の笑顔が凍り付いた。

 それに暫し目を留めた後、浩然は己の近衛武官や侍従達を引き連れて部屋を後にする。

 部屋にはこの後の処理を進める為に官吏達が数名残るだけであった。




「……いぃやあああああああぁぁぁっつ」






 殿舎の外へと出て来た浩然を迎え入れた俊豪達の耳にも、この殿舎の主の悲痛な声が微かに聞こえてきたが、誰も其れに関心を寄せる事は無かった。





 浩然は再び輿に揺られながら、皇帝に与えられた殿舎へと戻る為に銀星門を潜り抜け後宮を後にする。





 ―――……朝廷が俺の苛立ちや憤りを少しでも晴らす為に、あの側室を利用し、切り捨てた事は分かっている。こんな事は意味の無い唯の八つ当たりかも知れない……だが、それであの愚かな側室を後宮から追放する事が出来、少しでも静麗の周りが安全になるのなら、それだけで今は良い……今は…………




 浩然は輿に揺られながら小さく嘆息した。







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