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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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二. 息差

 


 皇帝の正妻である皇后の住まう宮、後宮で一番華やかで荘厳な蝶貝宮で執り行われた、皇后の懐妊を祝う豪華絢爛な宴から、一月ひとつきの時が過ぎようとしていた。



 その期間に後宮内では、高位の側室達の中で新たに数人の懐妊が発覚し、皇家の存続はこれで叶う事だろうと、朝廷や皇城は更なる安堵と慶びに包まれていた。

 皇帝の元にも複数の側室達が懐妊したという知らせは直ぐさま届けられ、朝廷や国中の貴族達から祝いの言葉が多数の品物と共に届けられた。




 皇城に入城してから此れまで、苦渋や怒りの表情しか見せる事が無かった皇帝だが、この頃になるとそれらの表情すら露わにする事さえ少なくなり、常に冷然とした態度を取り続けて周りの者達に感情を晒す事も無くなっていた。


 後宮へと赴き、側室達と対面している時は表情を緩めている様に見えたが、常に側に付き従って来た近衛武官や侍従達は、それが本当の笑みでは無い事に気が付いていた。

 そして何故、皇帝が昼の忙しい政務の合間を縫って、後宮に足繁く通うのかも、皇帝に直属の近しい者達は分かっていた。

 だがそんな皇帝の行動を心配しながらも、近習達は皇帝に付き従いその背を守り続けた。

 皇帝としての一番の責務を果たしたこの若い青年に、近習達はこれ以上望む物は無く、少しでもその心に寄り添い支えたいと思っていたのだ。


 そして朝廷も、皇后を始め貴妃等の高位の側室達が複数懐妊した事を受け、其れまで執拗に強要していたお渡りを、朝廷が必要だと判断した最低限に留める様になっていた。





 ◇◇◇





 浩然ハオランは朝餉の後から夕方にかけて行われる、様々な皇帝としての政務の合間に、食事や休憩の時間を削っては後宮へと頻繁に赴いていた。

 赴く先はその時々で変わったが、皇帝の子を懐妊した薔華チィァンファや貴妃等を中心とした高位貴族の元に訪れる事が多かった。



 側室達は皆が身分高く容姿端麗であったが、その中には聡明な者や愚かな者、皇帝の寵を得ようとなりふり構わずに強引に迫って来る者、それらを冷めた眼で静観する者等もいて、様々であった。

 だが側室達は皆が皇帝の寵を得て子を授かり、後宮内で確かな地位を築きたいと願う所は変わらなかった。


 時には四阿あずまや等で恥ずかし気も無く誘って来て、皇帝に口付けようとする者も居たが、浩然は気付かぬ振りでそれを躱し、優しく微笑むと顔を寄せてその耳元で側室が望む言葉を囁いた。

 此れまでに多くの側室達をその腕に抱いて来た浩然だが、それは皇帝としての責務であり、そこには愛情など一欠ひとかけらも存在しない。

 側室達も見目麗しい皇帝の寵は欲していても、浩然を愛しているわけではない。

 そのような利害関係でのみ繋がっている、愛してもいない側室に口付ける事は嫌悪感が沸き上がり浩然には出来無かった。



 だが、そんな風に後宮内で駆け引きを重ねる日々の中、一度だけ側室達と過ごしている所を静麗ジンリーに見られたことがあった。


 実際にはその時に一緒に居た高位の側室が、静麗が此方を見ていたと言っているだけで、浩然が己の眼で静麗の姿を確認した訳では無い。


 だが浩然の動揺は大きかった。


 後宮内で側室の参加が義務付けられている行事等が無い限りは、普段は月長殿から出る事はほぼ無いと聞いていたのに、何故こんな銀星門や皇宮に近い場所に今現れるのかと、浩然は後宮の側室達と楽しんでいる様に見える己の現状を、静麗に見られた事に羞恥と悔恨の思いを抱いた。


 しかし、朝廷に対抗する力を手に入れる為にも、今更止める訳にはいかなかった。

 浩然は今現在、唯一の武器とも言える、己の皇帝という地位と麗しい見目を使って側室達を篭絡し、様々な事を聞き出し、またその実家の権力を利用しようとしていた。

 平民出の皇帝がその様な事を考えていると思ってもいないのか、それとも知っていて侮っているのか、側室達もその後ろ盾も浩然に容易く近づいてきた。


 浩然はその中で己の味方と成り得るものを慎重に見極めていった。





 ◇◇◇





 ある日、後宮で催される宴に出る為に、浩然は執務の時に着ている服から華やかな衣装へと着替えた。

 そして薔華の宮へと皇帝専用の豪華な輿に乗り向かった。


 相変わらず豪華で荘厳な宮の庭園には、宴の為に用意された様々な物で溢れ返っていた。

 浩然は侍従に誘導され、何時もの様に一番上座へと腰を下ろした。

 隣には皇帝の子を懐妊して、自信に満ちあふれた美しい薔華が、嫣然と微笑みながら寄り添う様に侍っていた。




 浩然はこの、後宮に住む全ての側室達が集う、大きな宴や行事が何よりも苦痛だった。


 この宴の末席には、己の唯一愛する人が居る事を知っている。

 だが其方に視線を向けることは、決してしない。

 薔華や数多の側室達は浩然の視線に敏感で、常にそれを気にしている。

 浩然が誰に視線を向けるのか、誰に興味を示すのか。


 もしも浩然が静麗に目を向けて、その瞳の中に愛情が溢れている事に側室達が気付いたら―――それを考えると、静麗の姿をどれ程この目に映したいと切望していても、其方を見る事が出来なかった。




 浩然は薔華や子を身籠った高位の側室達に優しく声を掛けて微笑んで見せた。

 浩然に笑顔を向けられた側室達は頬を染めて微笑み返し、皇帝の寵を未だに得る事が出来ない他の側室達には優越感に満ちた表情を見せている。


 浩然はそんな側室達の様子を乾いた心で見ていた。

 そして静麗はこんな己や側室達の様子を、遠い末席からどんな思いで見て、この場に居るのかと考えた。



 ―――きっと、……苦痛と悲しみ、怒り、憎しみ…………俺の事を、恨んでいるだろう



 浩然は次々に沸き上がって来る様々な想いに蓋をして、周りに侍る側室達に微笑み続けた。





 ◇◇◇





 そんなある日、浩然は俊豪ジュンハオより信じたくない報告を受けた。

 静麗が後宮内で他の側室に傷つけられたと言うのだ。


 以前から静麗には俊豪の妹である伝雲ユンユンや、他の武官達が護衛の任に就いて居る事は聞いていた。

 そして浩然が後宮の美しい女達に心を移し、静麗の存在自体を忘れたかの様に振る舞っている今、わざわざ静麗を害する者がいるとは考えてもいなかった。

 幸い怪我は大したこと無く、傷痕も残らないと聞いたが、浩然の怒りは収まらなかった。


 何よりも誰よりも大切で、少しも害される事の無い様にと、その存在を渇望する心を押し殺してまで会わないでいた、浩然の最愛の妻を。

 たかだか数合わせの為に入れられただけの女が傷つけたのだ。



 ―――許すものか



 浩然は苛立つ心を抑えて朝廷の官吏を己の殿舎に呼び出すと、努めて冷静に見える態度でその側室を処罰する様に命じた。

 だが、平民である最下位の側室と多少揉めた程度では罰する事等出来ないという返答であった。

 そんな中、話を聞き付けて数名の官吏と共に現れたイェンは浩然の様子を伺い見ながら少し思案すると、にこやかに提案をしてきた。


「では、こうしては如何でしょう? その側室が陛下に不敬罪となる様な行動をもし起こしたら? 後宮に残ることは不可能となりましょう」


 浩然は閻が己の意に沿う返答をした事に不信感を抱いたが、今は何よりもその側室の処遇が先だった。

 今回は少しの怪我で済んだかも知れないが、この先はどうなるか分からない。

 そんな危険な女を静麗の直ぐ側に置いたままにはしておけない。

 浩然は不審な思いを抱きながらも閻の提案に乗る事にした。







 皇帝の荘厳な殿舎から外朝へと帰る途中、閻は他の官吏達から声を掛けられ足を止めた。


「良いのでしょうか? 下級といえ、一応貴族の姫君を」

「あぁ、構わないでしょう。所詮田舎の下級貴族の娘一人です。代わりは幾らでもいる」


 閻はうっすらと笑いながら官吏に頷いた。


「それよりも、今は陛下の我々への感情を少しでも改善させねば。その為に姫君には、我々朝廷に対する陛下の鬱屈を晴らす贄となって頂きましょう。そして朝廷は陛下の意向の全てを無下に扱っているわけではないという証に致します」


 閻は官吏にそう答えた後、辞して来たばかりの皇帝の殿舎を振り返り、誰にも聞こえない程の小さな声で呟いた。


「それにしても……最近は皇后娘娘や側室達の事をお気に召して頻繁に通われていたが……あの娘の事も、未だに少しは気にかけていたのか。罪悪感か、それとも……」


 閻は手で顎を撫でながらふむ、と首を傾げた。






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