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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十一章 ◆

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一. 吉報

 


 皇帝の即位儀礼と、皇后冊立の日から既に三月みつきに近い日々が過ぎていた。




 その日の政務を終えた浩然ハオランは、日が落ち暗くなった中を執務室がある天河殿から皇帝の住居である透輝宮 曙光殿へと戻る為に長い回廊を歩いていた。


 殿舎と殿舎を繋ぐ様に張り巡らされているその回廊は、屋根から吊り下げられている軒灯と回廊にそって等間隔で設置されている灯籠の光に、赤い欄干や彫刻が施された石柱が浮かび上がり素晴らしい光景を見せていた。

 だがそんな美しい光景には見向きもせずに、皇帝の殿舎に戻る為に浩然は歩を進める。



 官吏達が準備した書類に、最終的な決済の署名をする事が現在の浩然が行っている仕事の大半とはいえ、連日大量に発生する政務をこなし、皇帝として必要な知識を学び、その合間を縫って後宮の側室の元に通い、更には武官に剣や武術を習っていた浩然は、精神的にも肉体的にも疲れ果てていた。

 余りにも過密なその日程に、侍従や武官達が心配している事に気付いてはいたが、目的がある浩然にはその足を止める気は全く無かった。



 長い回廊をグゥォ 俊豪ジュンハオや数名の近衛武官を従えて歩いていた浩然だが、前方からホォゥ丞相がやって来るのに気付き、目をすがめた。





 静麗ジンリーが側室として後宮に留め置かれる事を告げられた翌日、候丞相はたった一人で皇帝の殿舎へとやって来ると浩然の前に額ずき、沈痛な面持ちで謝罪の言葉を口にした。

 そして候丞相の口から何故この様な事態となったのか、その経緯が語られた。

 だが、どれ程言葉を重ねて真摯に説明をされても、全てが言い訳にしか聞こえず、浩然の心を動かすことは出来なかった。

 どの様な理由があったとしても、静麗が側室となった事は動かしようが無い事実であった。


 そしてあの日、イェン 明轩ミンシュェンは静麗を側室にしたと告げたその口で、皇后や高位の側室に子が生まれるまでは静麗に会うなと言ったのだ。

 会えば後宮内でどの様な事になるか分からないと。


 その様な事、わざわざ閻に言われるまでも無く浩然にも分かっている。

 後宮で皇帝の寵を何よりも欲している側室達が、平民時代の事とはいえ浩然の唯一人の妻であった静麗が側室として後宮に入った事を知り、その存在を意識しない筈が無かった。

 此れからは閻や朝廷だけでは無く、後宮の側室やその後ろ盾の動きにも目を向けておかなくてはならなくなった。

 浩然が愛しているのが静麗唯一人だともし知られたら、朝廷以上に恐ろしいのは、きっと後宮の者達なのだろう。






 前から歩いて来た皇帝の姿に気付いた候丞相は足を止めて浩然を見詰めた。

 そして何かを言いたげに口を開いたが言葉を発することは無く、嘆息すると静かに目を伏せて回廊の端に寄り、皇帝が通り過ぎるまで拱手をして頭を下げ続けた。

 浩然はその前を通り過ぎる瞬間にちらりと候丞相に目を向けたが、声を掛けることはせずに泰然とした足取りで歩を進め通り過ぎた。

 候丞相は遠ざかる浩然の後ろ姿を暫し見詰め、もう一度嘆息するとその場を後にした。





 ◇◇◇





 その数日後の夜、政務を終えて殿舎へと戻ってきた浩然は、簡素な部屋着に着替えると私室の中で寛いでいた。


 この頃になると、朝廷から後宮に御渡りする様に強要される事も格段に減り、皇后や貴妃等の高位の側室の元へ偶に通うだけで済むようになっていた。

 その為に夜は自室でゆったりと過ごす事も出来るようになり、浩然はそんな時間を勉学と、後宮の人間関係や皇城に出入りしている貴族達を調べる事に費やした。

 側室達の実家である貴族家の事が書かれている書を眺めながら、浩然は此れから必要になるだろう事柄を頭に詰め込んでいく。



 集中して書を読んでいた浩然は、顔を上げるとふっと息を吐き、酷使した目を指で押さえた。

 目の奥がじんと痛みを発しているのが分かったが、少しでも早く知識を身に付け、朝廷に抗う術を少しでも手に入れたいと焦燥を感じていた浩然は、目から手を離すとまだ読んでいない書に手を伸ばした。



 其処に慌ただしい足音が響いて来た。


 部屋の入口前で警護していた近衛武官の俊豪が素早く動き、扉を薄く開けて外の様子を確かめる。

 だが直ぐに力を抜くと元の位置へと戻り、直立の姿勢をとった。


 その直後、入室の許可を求める声が外からかかり、浩然は俊豪に頷いた。

 俊豪が開けた扉から侍従のスゥーが忙しない足取りで室内へと入って来る。

 まだ若いが優秀な人材である蘇が、この様に慌てている姿は初めて見る。


 浩然は書から顔を上げると訝しく思い、蘇に視線を向けた。

 蘇は少し息を乱していたがその場に素早く膝を突くと、息を整えながら平伏した。


「陛下に、ご奏上申し上げます」

「どうした? 申せ」


 浩然の問いかけに顔を上げた蘇は口を開いたが、其処で瞳を揺らした。

 蘇の様子が可笑しな事に、浩然は胸騒ぎを覚えた。



 ―――何だ? ……まさか、静麗の身に何か?



「申せっ。何があった?」


 浩然が重ねて問うと、蘇は目を伏せて口を開いた。


「申し上げます。……先程、桃簾殿より使者が参り、皇后娘娘に係わる事で報告が御座いました」


 皇后娘娘と聞き、静麗の事では無かったと浩然は安堵の息を吐いた。

 だがそんな浩然を見詰め、蘇は言葉を続ける。



「使者が申しますには、…………皇后娘娘、ご懐妊の由に御座います。…………陛下におかれましては、皇后娘娘ご懐妊の御慶事、お喜び……」


 其処まで言うと蘇は言葉を詰まらせた。

 そして深く頭を下げ、額を床に押し付けた。


「陛下、……我等、陛下の侍従、近習一同……陛下に、―――心より、感謝申し上げます」


 蘇の言葉に、俊豪や周りに居た者達も静かに平伏し、浩然に深く頭を垂れた。






 ―――……子が、……出来た……?





 浩然はゆらりと椅子から立ち上がった。

 はっと息を飲み、周りで叩頭していた者達が顔を上げて浩然を見詰める。


 だが浩然はその視線を感じていない様に歩き出した。

 そして侍従達が跪いているその中を通り過ぎ、奥の寝室へと一人、入って行く。


 俊豪や蘇はそんな皇帝の姿に、声を掛けることも出来ず、その姿を見送る事しか出来なかった。







 広い寝室の中で一人きりとなった浩然は、薄闇の中で豪華な寝台へと腰を下ろした。



 ―――皇后に、子が出来た…………



「は、……はははっ」


 浩然の口から乾いた笑いが零れた。



 ―――嬉しいだろう? あれ程願っていた子が出来たんだ。此れで俺はお渡りを強要される事も無くなり、男児が生まれれば、自由になれるかも知れない



「はっ、ははははっ、っつ!!!」


 浩然は大きな声で笑いながら寝台に突っ伏すと、両手を寝台へと叩き付けた。





 ―――子など、……子など欲しく無いっ、俺が欲しいのはっ!!!!





「うっ、くぅ、…………麗、……静麗っ。…………てくれ」






 皇后の宮が、この国を挙げての慶事に喜びに満ち溢れて祝賀の雰囲気に包まれている、同じ夜。




 ―――皇帝の宮では誰もが沈痛な表情で顔を伏せ、若き皇帝の苦悩と悲哀に満ちた声に耐える事となった。








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