八. 咆哮
暗闇に包まれた静寂の中、月長殿から密やかに外へと出て来た浩然を、郭 俊豪が辺りを警戒しながら出迎えた。
浩然の後ろから影のように付き従っていた伝雲が姿を見せると、俊豪は鋭い視線を妹へと向けた。
伝雲は兄の視線の意味を素早く察知すると、直ぐに頷いた。
「問題ありません」
俊豪は伝雲に頷き返すと浩然に向き直った。
「陛下、では直ぐに曙光殿にお戻りを」
「分かった」
俊豪に先導されて、浩然は橄欖宮の門を静かに潜り抜ける。
浩然は数歩進んだ先で一度だけ後ろを振り返ると、その寂れた殿舎を見詰めていたが、俊豪の促す声に従い後宮の最奥にある殿舎を後にした。
皇帝陛下の宮まで人目につかぬ様に気をつけながら戻る途中、俊豪が小さく浩然に声を掛けた。
「陛下。……恐れながら申し上げます。陛下の想いに後宮の者達が気付けば、蒋殿は危険に晒されましょう。そして今の陛下の御立場では蒋殿を完璧にお守りする事は不可能で御座います。どうか、蒋殿の事を想うのであれば、此れを最後となさいませ」
浩然は足を止めて俊豪の顔をじっと見た。
対峙する浩然と俊豪の後ろでは、伝雲ともう一人の武官が息を詰めて見守っている。
皇帝陛下が怒りの余り俊豪を処罰するのではないかと危惧したのだ。
しかし浩然は分かったと頷いた。
「余が此処に来ることは、もう無いだろう。それに、静麗は直ぐに雅安に帰す。……明日、丞相を呼んでそう命じる積りだ」
決然とそう宣言した浩然だが、その感情を俊豪達に読み取られるのを厭う様に、そっと目を伏せた。
◇◇◇
翌日、天河殿の執務室へと候丞相を呼び出した浩然は、これ以上は待てない、直ぐに静麗を故郷に帰すようにと命じた。
丞相は困った顔をして浩然に頭を下げ続けた。
「陛下、それはどうか今しばらくお待ちを。蒋殿に関しては少し朝廷の方で問題が御座いまして、直ぐに帰郷して頂く事は無理なので御座います。どうぞ、ご容赦を」
その後、浩然がどれ程詰め寄って、静麗を帰す様にきつく命じても、丞相を始めとする高官達は首を縦に振らなかった。
そして浩然には皇帝陛下として成さねばならない政務が山積しており、それ以上問答を繰り返す時間など残されていなかった。
いっそのこと、全てを投げ出してしまおうかと何度も思った浩然だが、そうして困るのは朝廷の者達よりも平民である事を知ってからは、それも出来なくなった。
特に、疫病の影響を見て不穏な動きをしていた近隣諸国との水面下での駆け引きは複雑を極めており、予断を許さない状況が続いていた。
そんな中で浩然が職務を放棄すれば一体どういう事態になるのか、この一月で様々な事を学んできた浩然には容易く想像が出来た。
浩然が苛立ちながらも数日を過ごしたある日、皇后娘娘である薔華の生誕日の宴が蝶貝宮にて開かれる事となった。
浩然は当初その宴に出るつもりは全く無かったのだが、薔華の後ろ盾である朱家がどうしても陛下に出席をと強く望み、浩然は断る事が出来なかった。
朝廷のみならず、国中に影響力を持つような大貴族の意向を無視する事は、今の浩然には無理であった。
そうして当日に蝶貝宮 桃簾殿まで赴いた浩然は、その豪華絢爛な宴の様子に圧倒される事となった。
朱家の威信を掛けて行われたその宴は、他の側室やその後ろ盾に対する朱家の傲慢なまでの威圧であった。
浩然は一番高い場所に設置された上座から宴の様子を見下ろす。
美しい女性達が長い領巾をひらめかせながら、優雅な旋律に乗ってしなやかに舞い踊る。
浩然やその隣に座った薔華の前には、贅を凝らした食事が所狭しと並べられている。
本日の主役に相応しい華やかで豪華な衣装や装飾品を身に着けた薔華は、宴の様子を満足げに見詰めていた。
しかし浩然はこの華やかな宴の様子を見て、寂れた殿舎に閉じ込められていた静麗の姿が想い返された。
静麗の置かれている立場と、この華やかな場の落差に愕然となる。
そして宴で一堂に会している多くの側室達の姿を見て、改めて静麗を裏切った証を突き付けられている気がした浩然は、忸怩たる思いを抱いて顔を伏せた。
浩然の心は、華やかな宴の場が盛り上がるにつれて、冷たく、固く、凍てついていった。
◇◇◇
皇后娘娘の宴の場から皇帝陛下の殿舎へと戻った浩然は、宴用の華やかな衣装から寛げる服へと着替えた。
そして侍従が淹れた茶を手に取り、疲れた様子で椅子に腰かけていた。
そこへ閻 明轩と数名の官吏がやって来た。
精神的に疲労していた浩然は、そんな官吏達の姿を虚ろな目で見ていた。
そんな中、閻が浩然の前に進み出てくると跪いた。
「陛下に申し上げます。本日後宮に新たな貴人が入宮致しました。此方がその者の詳細で御座います」
閻が侍従の蘇に持参した巻物を一つ手渡す。
蘇はそれを受け取ると、恭しく浩然へと差し出した。
浩然はそれを億劫そうに受け取った。
今までに高級官吏達と何度も繰り返してきた行いだ。
―――国の威信の為にどれ程貴人の側室を集めようと、俺が自分からその側室の元へ渡る事など無いのに、ご苦労な事だな
皮肉な思いで渡された書を広げる。
しかし読み進めるうちに浩然の身体は強張り、小さく震え出した。
そして浩然の手から巻物がはらりと零れ落ちて床へと転がり、帯の様に長く伸びて広がった。
「どういう、事だ……」
茫然とした声で浩然が問うのに、閻はにこやかな顔をして応えた。
「ご覧の通りで御座います。其方は、新たに陛下の側室となられた蒋貴人の詳細に御座います。」
閻の言葉が耳に届いた、次の瞬間――――――浩然は手を卓の上で大きく横に振り払った。
卓の上に乗っていた高価な茶器や花瓶が床に叩き付けられ、粉々に割れて飛び散る。
その甲高い陶器が割れる大きな音に重なる様に、女官達の悲鳴も聞こえたが、浩然は見向きもしなかった。
「ふっ、ざけるなっ!!!! 俺は、静麗を帰せと言ったはずだ!! それがどうして、側室になんてっ!!!!」
浩然の怒号が皇帝陛下の私室に響き渡った。
肩で大きく息をしながら浩然はぎらついた瞳で官吏達を睨み付ける。
「直ぐにっ、直ぐに撤回させろっ!!! そして今すぐに静麗を雅安へと帰すんだ!!! さもなければ、俺は今後一切お前達の言う事など聞きはしない!!!!」
浩然の叫びを聞いた官吏達は少し怯んだ様子を見せたが、閻は余裕のある様子で浩然を見ていた。
「陛下。既に此れは決定された事で御座います。一度後宮へと入った側室は、罪を犯して追放されるか、お亡くなりになるまで出る事は叶いません。どうぞ、ご理解下さいませ」
浩然は身体をふらつかせた。
「何故だ……? 何故、静麗を側室にする必要があった? 俺は、お前達の望むようにしてきただろう?」
浩然の譫言の様な声に、蘇や俊豪達が浩然の側に近寄りその身体を支える。
「確かに貴方様は此れまで朝廷に、そして国の為に尽くして下さいました。ですが、静麗殿が居なくなった後も、此れまでと同様に我々に協力して頂けるかどうか、貴方様の性格を鑑みるに疑問が残りました。それに、貴方様も心の奥底では静麗殿を手放したくないとお考えなのではないかと拝察し、僭越ながら陛下の望みを叶えさせて頂きました。あぁ、ですが一つご忠告を。高位の側室様方との間に皇子殿下がお生まれになるまでは、蒋貴人にお会いになる事はお止めになった方が良いかと。……後宮では何が起こるか、私供にも分かりませぬゆえ」
浩然の足から力が抜け、俊豪達に支えられながらもずるずると崩れ落ち、その場に膝を突いた。
―――あぁっ…………俺のせいだ。俺が静麗を何時までも此処に留め置いたから。……俺がもっと早く静麗を逃がしてやっていれば…………
「ぅ、ああああぁぁあああああああっつ!!!!!!! 静麗、静麗っ!!!! 許してくれ、俺のせいだ、俺がっ!!!!」
浩然の慟哭が響き渡る中、官吏達は静かに退出していった。
後には、心配そうにこの事態を見守る浩然の近習達だけが残った。
其れからどれだけの時間が過ぎたのか――――――侍従や近衛武官が見守る中で浩然は緩やかに身体を起こした。
緊迫感と静寂に満ちた部屋の中で、落ち着きを取り戻した皇帝陛下の様子に、周りに侍る者達はほっと息を吐いた。
しかし顔を上げた皇帝陛下の表情を見た周りの者達は息を飲み、慄きに身を震わせた。
近習達が見詰めるその先で、―――浩然は此れまでに見せた事の無い凄惨な表情を浮かべて笑っていた。
―――……いいだろう。…………朝廷が俺達を其処まで利用するというのなら、俺も朝廷を、そして側室やその後ろに居る全ての者達を、利用し尽してやろう―――……そして、必ず静麗をこの手に取り戻す!!!!
第十章 終
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