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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十章 ◆

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六. 暗暗裏

 


「今日は……」



 浩然ハオランは朝餉の後、私室の中で普段着から政務に向かう為の執務服へと着替えをしながら、ふと思い出したように小さく呟いた。


 着替えを手伝っていた侍従のスゥーは、顔を上げてどうしたのかと浩然を見てくるが、浩然は何でも無いと首を横に振った。



 ―――今日は、……静麗ジンリーの十六歳の誕生日だ



 皇都へ着いてから激動の日々を送っていた浩然は、唐突に思い出した愛おしい妻の誕生日に、憂いをおびた表情で目を伏せた。









 天河殿で行われた即位の儀から、丁度一月が経っていた。


 この頃になると、朝廷も浩然の従順な様子から、逆らう意思をもう持っていないと考える様になり、監視の目も多少緩む様になっていた。


 朝廷の手配によって、連日の様に行われていた後宮へのお渡りも、皇后娘娘や貴妃等の高位の側室の元へ通う事を指示されるのみとなった。

 また今後増えるであろう低位の側室達の元へは、浩然が望まなければ通わなくても良いとされた。

 低位の側室達は、少しでも権力を得たいと望む貴位の低い貴族達が差し出してきた娘が殆どで、朝廷にとっては、所詮数合わせの為に後宮に入る事を許した身分の低い姫君達に過ぎず、それ程重要視していなかったからだ。








 その日の夜更け、浩然は私室の窓際に立つと精密な飾り窓に手を置き、雲一つない澄んだ夜空を見上げた。

 燭台の灯りを絞り、何時もより暗くした室内には、明るい月光が差し込んでいる。



「綺麗だな。……静麗」



 侍従や近衛武官が部屋の隅に控えていたが、浩然の小さな呟きは誰の耳にも届かなかった。




 浩然は暫く静かな瞳で月を見上げていたが、唐突に踵を返すと部屋から出ようとした。


「陛下、このような夜更けに何方どちらへ? 外へお出になるのでしたら、すぐに輿を用意いたします」


 侍従がそう声を掛けてくるが、浩然は何も答えずにその前を通り過ぎた。


「陛下」


 本日夜警を担当していたグゥォ 俊豪ジュンハオが浩然の斜め後ろに控えると、歩きながら控えめに声を掛ける。


 浩然はちらりとその大柄な近衛武官の姿を横目で見た。

 皇帝陛下に仕える多くの近習達の中で、浩然が今一番信頼出来そうだと感じていた男だ。

 少し逡巡した後、浩然は足を止めて俊豪に向き直った。


「大きな声を出すな。余が何処に行こうとも其方達には関係がない」

「そういう訳には参りませぬ。我々は陛下の護衛です。何処へでもついて参ります」


 皇帝陛下の護衛として引く気が全く無い俊豪を前に、浩然は顔を背けると少し迷った末に後宮に参ると小さな声で告げた。

 俊豪は驚きに少し目を見張ったが、直ぐに準備を整えますと答えて踵を返そうとした。

 しかし浩然がそれを手で制した。


「待て。輿も護衛も必要は無い。誰にも、……特に後宮の者達には気付かれたくない」


 俊豪が訝し気に眉を顰めるのが分かった。

 浩然が自らの意思で夜に後宮へ行くことなど、此れまで一度も無かった。

 それがこの様な夜更けに、しかも誰にも気付かれずに後宮に行きたいなどとは、一体何事かと考えているのだろう。


 俊豪が低い声で慎重に尋ねてくる。


「陛下。……何方の殿舎へ赴かれる御積りですか」


 俊豪の問いに浩然は暫く無言であったが、やがて重い口を開いた。



「…………月長殿だ」



 俊豪は浩然の顔を凝視した。


「本気で、御座いますか?」

「……あれから一度も静麗とは会えず、姿も見ていない。……今日は、静麗の誕生日だった。……その無事を確かめたい」


 浩然が俯き低い声でそう訴えるのを、俊豪は静かに見下ろしていたが、やがてその場に膝を突いた。


「分かりました、陛下。では、私ともう一人、近衛武官が警護致しますので、月長殿に参りましょう」


 浩然は顔を跳ね上げて、己の前に跪いた俊豪の顔を見詰めた。


「……良いのか」


 浩然は信じられない思いで、震える声を出した。

 月長殿に行くとは言ったものの、此れまでどれ程願っても叶えられなかった事が、まさかこれ程あっさりと許されるとは思ってもいなかったのだ。


「はい。この深夜に輿では無く徒歩で、しかも少人数で移動すれば、後宮の者達に感づかれる事はまず無いでしょう。ですが一つお約束を。必ず短時間でこの殿舎までお戻り下さい。それをお約束して頂けるのでしたら、私が陛下を月長殿まで、後宮の者にも、朝廷にも気付かれずにご案内して見せます」


 俊豪の真摯な言葉に、浩然も神妙な面持ちで深く頷いた。


 浩然は侍従の手を借りて暗い色の目立たぬ服に着替えると、二人の近衛武官のみを連れて闇に紛れる様に、ひっそりと皇帝陛下の荘厳な殿舎を後にした。







 浩然は後宮の最奥へと初めて足を踏み入れた。


 途中警護の者と何度かすれ違ったが、俊豪が前に出て対応すると誰も不審に思う者は居らず、後宮の最奥まで浩然は誰にも気付かれずに辿り着く事が出来た。


 人目につかぬ様に回廊を逸れて庭園の中を歩いていた浩然は、ふと足を止めた。

 見詰める先には、月明かりに微かに浮かぶ可憐な花があった。



 ―――あれは……



 浩然は吸い寄せられるようにその花に近づくと、足元の小さな花を見下ろした。

 風に乗って、微かに甘い香りが届く。


 浩然は手を伸ばしてその花を手折ろうとしたが、途中で躊躇して手を止めた。



「陛下、お早く。人目に付くとまずい」

「分かった」


 浩然はもう一度鮮やかな浅黄色に目をやると、静かに手を握り締め、その場を後にした。








 月長殿へと辿り着き、暗闇でも分かるその寂れた様子に、本当に此処に静麗が居るのかと浩然は不安を覚えた。



伝雲ユンユン


 門の前で俊豪が小さく声を上げた。


 見ると少し離れた場所から女武官が一人小走りに近づいてくる。

 俊豪はその女武官と少し話をすると、共に浩然の元へと歩み寄った。


「陛下。この者は近衛武官のグゥォ 伝雲と申します。我が不肖の妹です。そして現在この辺り一体の警護を担当しております」


 紹介を受けた伝雲はその場で浩然に向かい深く頭を下げた。


「我々は殿舎の周りで警護をしております。この先の案内は伝雲が致します」

「陛下、どうぞ此方へ」


 浩然は伝雲に導かれ、暗闇の中を月長殿へと初めて足を踏み入れた。

 狭く侘しい前庭を通り過ぎ、伝雲が殿舎の扉を開けるのを見た浩然は眉を寄せた。


「鍵は無いのか……?」


 浩然が小さく呟いた声に伝雲は振り返ると小さく頷いた。


「はい。本来なら、殿舎には多くの使用人達が控えており、夜も寝ずの番がいる為に門を閉じるだけとなります。しかし、今この殿舎には、お二人しか住んでおりません」


 静麗の現状に憂いながら、浩然は殿舎の奥へと向かった。






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