五. 篭絡
即位の日から十日が経とうとしていた。
その間に後宮では高位貴族の姫君達が数多く入宮を果たしていた。
皇后娘娘が後宮の新たな主として入宮してから七日も経たぬ内に、貴妃三名、妃六名が皇宮に程近い銀星門の周りにある殿舎へ入る事となった。
浩然はその日、後宮に入る前に挨拶に訪れた九名の側室と対面する為に、執務室から外へと出て天河殿の長い回廊を歩いていた。
天河殿の中にある皇帝陛下への拝謁が行われる場所には、本日後宮へと入る貴族の姫君達が集められていた。
そして高台の上にある玉座の前に二列となり、跪いて皇帝陛下のお越しを待ちわびていた。
浩然が謁見の場に現れると、小さなざわめきが起きた。
平民腹の皇帝陛下と聞いていた側室達は、想像と違う浩然の見目麗しい姿に衝撃を受けていた。
顔を赤く染める者や、口を開けて呆けた様に浩然を凝視する者、様々な反応だが、皆が浩然の優れた容姿に好意を抱いたのは間違いが無かった。
その見慣れた女達の反応を、浩然は冷めた想いで横目に見て、側室達が跪いている場所から数段階段を上がった高台に設置されている玉座へと、優雅な仕草で腰を下ろした。
その左右に近衛武官が二名直立して警護に当たり、侍従が一人玉座の後ろへと控えた。
―――貴族の姫といっても、俺を初めて見る反応は、雅安の女達と同じだな
自分の顔が整っており、女性達にとっては好ましいモノである事は浩然も十分に理解していたが、舐める様に凝視されて良い気分になる筈も無い。
浩然は、そんな側室達の反応を無視して、女達を冷静に観察し始めた。
―――この女達も、朝廷の奴らの様に俺の意思を蔑ろにして脅す真似をするのか? いや、脅すまではしなくとも、俺を利用しようとするのは変わらないだろう。……それよりも重大な事は、後宮には未だに静麗が居るという事だ。……この女達の意識を、絶対に静麗に向けさせてはいけない
その為に必要な事はと考えた浩然の胸に、苦い思いが広がる。
その僅か半月後には更に嬪の位の側室が十人、そして定員の無い貴人の位の中でも、比較的貴位の高い側室達が数名後宮へと入り、皇帝陛下の宮に近い銀星門の側に存在する殿舎は全て埋まる事となった。
そして貴妃達と対面を果たしたその夜から、浩然は朝廷が指定した側室達の元へとお渡りを強要される日々が続く事となる。
◇◇◇
皇帝陛下の即位と皇后娘娘冊立の日からほぼ一月が経とうとしていた。
浩然は、昼間は膨大にある政務に追われながらもその合間に必要な知識を学び、また剣を振るって身体を鍛えた。
そして夜は、朝廷に従い指定された側室の元へと従順に通い続けた。
当初は、静麗を朝廷の手の内に握られている事への恐怖から、そして、後宮の女達に静麗への情愛を感付かれない様にと、言われるがままに従っていた浩然だが、その内にある想いが沸き上がって来る。
ある夜、側室の殿舎で僅かな時間を過ごした浩然は、帰りに側室から昼にも後宮に会いに来てほしいと強請られた。
煩わしいと思いながらも顔には出さずに微笑んで頷いた。
浩然が側室達を疎ましく思っている事や、浩然の心が何処にあるのかを後宮の者達には絶対に知られてはならない。
自分の殿舎へと戻りながら、浩然は朝廷の権力に少しでも抗う事は出来ないかと考えていた。
そして皇宮に入ってから此れまでに関わってきた者達の顔を思い返した。
皇宮に押し込められた当初は朝廷の者達が周りを固めていたが、最近は天河殿の執務室へと官吏以外の者達も多く訪れる様になっていた。
様々な立場や役職の者達が居たが、その中には後宮にいる側室達の親族の姿も多く見られた。
そして、そのほぼ全てが高位貴族の者達である事を思い出すと、浩然は口元に手をやって考えを巡らせた。
―――……そうだ。……今の俺は皇帝とは名ばかりで何も知らず、力も無い。まずは後宮や皇城の事を良く知らなくては。誰がその中で力を持っているのか、それに人間関係やその立ち位置。一番重要なのは、誰が俺の敵となり味方と成り得るのかだが、それを知る為に必要なら…………
その翌日から、昼間に政務の合間を縫っては積極的に後宮を訪れる皇帝陛下の姿が見られる様になった。
後宮の者達は、此れまでに無かった皇帝陛下の昼の訪れを皆が喜び、熱烈に歓迎を示した。
そして側室達は何とか皇帝陛下を自分の殿舎の中へ招き入れようと試みたが、浩然はそれらを上手く躱しては言葉巧みに後宮内の庭園などへ連れ出した。
―――殿舎の中に入ったら、こいつらは俺を離さないだろう。これ以上は絶対にごめんだ
浩然は煌びやかな衣装を身に纏い、入宮して間もない側室の肩を優しく抱いて、花が咲き乱れる庭園の中を誰もが見惚れるような美しい微笑みを浮かべながら優雅に歩いた。
まるで生まれながらの皇族の様な優美な浩然の所作や、その美しい姿に側室やその侍女達はうっとりと見惚れていた。
側室は浩然の腕にほっそりとした手を這わせる様にして、隣に寄り添ってくる。
豪華な衣装や装飾品を多数身に着けている事から、側室の実家の裕福さが窺える。
そして自分の後ろ盾の大きさと、その美貌で浩然を篭絡しようと媚びた眼つきで見上げてくる。
浩然は入宮したてのこの側室が、他の側室達と同様に皇帝陛下の寵愛を得ようと必死になっている浅ましい姿に辟易としていた。
後宮の側室達は、誰も浩然の性格や今までどの様に暮らしてきたか等には興味を示さなかった。
其れどころか皇帝陛下が平民であった事は、まるで口にしてはならない禁忌であるかの様に、側室達は誰も其れに触れる事は無かった。
側室達は浩然の事をこの大国の皇帝陛下としてのみ敬い、皇家の血を引く御子を授かる事だけを切望していた。
寄り添う様に歩く二人の後ろには、多くの侍女や女官達が少し離れた場所で控えている。
其処は、色とりどりの衣装で埋め尽くされ、大国の皇帝陛下の後宮に相応しい華やかさに満ちていた。
浩然は側室を庭園の奥にある四阿へと導き、その中にある長椅子へと側室を座らせるとその横に自分も腰を下ろした。
そして側室の方に身を寄せると、その耳元で睦言を囁く。
「余は其方の事をもっと良く知りたい。……確か其方の親は、国境沿いの領地を拝していたな。それに、兄が今朝廷に居ると聞いたが、どの様な性格の兄上か?」
「まぁ、陛下! 私の実家を気にして下さいますの? 嬉しゅう御座いますわ。……我が家は、……」
浩然は側室が意気込んで実家や領地の事を話すのを、目を細め口角を上げ、時に相づちを打ち頷きながら聞いていた。
一見すると側室に対して穏やかに微笑んでいる様に見えるが、その目の奥は全く笑っておらず、実家の機密事項を嬉々として話す側室を冷めた想いで見ていた。
―――高位貴族は其れなりの教育を受けていると聞いたが、男慣れは全くして居ないのだろうな。皇帝が相手とはいえ、こんなに簡単に領地や実家の秘密を洩らすとは……
浩然の心にもない世辞の言葉に、自分の美しさに自信を持っていた側室は当然といった様子で笑い声を上げ、その軽やかな声は四阿の周りへと響き渡った。
侍女達はそんな皇帝陛下と側室の仲睦まじい様子を満足そうに見詰めていた。
浩然はそんな周りの様子から目を逸らすと、静麗が居ると聞いている後宮の最奥に視線を転じた。
―――この先に、静麗が居る。それが分かっているのに、会いに行くことさえ出来ないなんて
浩然は目を細めて、狂おしい程に恋い焦がれる、愛おしい妻の姿を追い求めた。
浩然のそんな苦しい心の内を知らない後宮や朝廷の者達は、昼にも後宮へと向かう浩然の事を、やはり若い男だと笑っていた。
田舎町から皇都へと出て来て、美しい姫君達に溺れているのだろうと。
だが、これで皇家の血統は保つことが出来るだろうと安堵してもいた。
閻 明轩もそんな浩然の様子を聞いて、自分の思っていた通りに事が運び満悦の表情を浮かべていた。




