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孤独な月は後宮に堕ちる  作者: 桜守 景
第十章 ◆

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二. 老獪

 


 即位当日の朝、今宵行われる初夜の儀に関する話を黙ったまま聞いていた浩然ハオランは、それらの儀式が皇帝陛下の殿舎である曙光殿の寝室で行われると聞き、不快感に眉を顰めた。


 浩然の周りには常に多くの従者達が侍る様に取り囲んでいる。

 そんな中にあって、この殿舎の寝室は浩然が一人きりとなれる数少ない場所であった。

 その貴重な、唯一安らげると言っても良い私的な空間に、静麗ジンリー以外の女性を入れる事は浩然には許容出来なかった。


 直ぐに場所の変更を侍従に言い渡すと、浩然は返事も聞かずに天河殿へと向かい部屋から出て行く。

 侍従は暫し茫然としていたが、我に返ると慌てて皇帝陛下の命を伝える為に朝廷の高官の元へと走った。





 初夜の儀の変更を言い渡された高官達は、最初何故そのような不可解な命をと困惑していたが、直ぐにどうするかを話し合った。


 此れまでの慣例では、初夜は皇帝陛下の殿舎へと皇后娘娘が召し上げられていたのだ。

 それを忙しい当日に、急に変更する等と不満を露わにする者もいたが、イェン 明轩ミンシュェンは顎を撫でながら考えを巡らせた。


「皆様、宜しいでしょうか」


 閻が声を上げると、皆が話を止めて視線を向ける。


 閻は以前から高級官吏の一人であったが、最近は以前とは比べ物にならぬ程の発言権を得ていた。

 誰も成し得なかった皇家存続に重要な役目を果たした閻は、朝廷の中でもその存在感を増していた。


「確かに慣例通りに進めるならば陛下の殿舎で行うべきでしょう。しかし、この辺りで少し陛下の意向も聞いておくことも必要ではないでしょうか。静麗殿の件で、陛下の我々への感情はこれ以上無い程に悪い。此処でまた陛下の意志を曲げる様な事をすれば、今夜の初夜事態が失敗に終わる事も考えられます」

「何っ、それはいかんぞ。その様な事になれば、ヂュ家の者達も黙ってはいまい」

「そうだ。今残っている未婚の姫君の中で一番身分の高いのは、朱家の薔華チィァンファ姫なのだぞ。かの姫に皇子殿下をお生み頂くことが、寧波ニンブォにとって一番望ましいのだ」


 官吏達が口々に話す言葉に閻は大きく頷きながら言葉を続けた。


「皆様の言われる通りです。今宵の初夜は、必ず成功させなければなりませぬ。その為には、陛下の意向を朝廷は聞き届けたと思わせることも必要なのではないでしょうか。……それに、薔華姫にしても、陛下が尊い御身で態々自分の宮まで足を運んで頂けた事に、深いご寵愛を感じてお喜びになるのではないでしょうか」


 閻の言葉を聞いた高官達は頷き、皇帝陛下の朝廷への反発心や朱家への配慮、そして静麗の今後の扱い等、様々な事を話し合い、最終的に初夜の場を皇后娘娘の宮に変更すること等を決定した。


 閻はその様子を満足そうに眺めていた。





 ◇◇◇





 即位と同時に行われた皇后娘娘冊立、そして二人の成婚の儀は全て予定通りに終了した。




 浩然は十八歳という若さで、この大国寧波ニンブォの至高の存在である天子と成った。




 儀式に関わった全ての者達がほっと息を吐き安堵の表情を浮かべる中、浩然は固い表情のまま皇帝陛下の殿舎へと戻っていた。

 即位之儀の後、疫病を免れた皇族や、高位貴族の者達の挨拶を皇后娘娘と共に受け、その後、娶ったばかりの正妻と話をするでも無く、直ぐに己に与えられた殿舎へと引き返して行ったのだ。


 薔華チィァンファはそんな浩然の後ろ姿を少し寂し気に見詰めていたが、この後に控えている初夜の為に成すべき事が山の様にあった為、皇帝陛下の後に続いて天河殿を後にした。






 殿舎に戻った浩然を待っていたのは閻であった。

 閻は浩然の姿を見ると直ぐに跪き、即位が無事に終了した事を言祝いだ。

 そして今宵の初夜に関しても言及してきた。


「陛下。陛下のご希望に沿い、朝廷は慣例を破って初夜の場を皇后娘娘の宮へと変更致しました。……今宵は大切な夜となります。どうぞ、皇后娘娘と仲睦まじくお過ごし頂く様、お願い申し上げます」


 誰に言われるよりも、閻に言われたこの言葉が、一番我慢がならなかった。



 ―――俺が愛しているのは誰かを、一番よく知っているお前がそれを言うのかっ!!



 浩然は、静麗を未だに故郷に帰さない事に対する不満も相まって、黙っている事が出来なかった。



「余が、……俺が静麗以外の女を愛する事は無い。……例え、俺が後宮の女達を抱き、子が生まれようとも、女も、生まれてくる子も、愛する事は無いだろう。いや、静麗と俺を引き離した存在として、憎むかも知れないっ」


 閻を睨みながらきつい口調でそう吐き捨てた浩然に、閻よりも周りに詰めていた侍従や女官達の方が動揺したように身動ぎしていた。


 しかし、当の閻は涼しい顔をして、そうで御座いますかと頷いている。

 そしてふっと口元を緩めて笑った。


「……何がおかしい」


 浩然が低い声を出す。

 閻は若く青い浩然を憐れむ様に見た。


「陛下。貴方様が皇后娘娘や多くの側室様方、そして此れから生まれてくる御子達を愛そうが、憎もうがどちらでも良い事なのです。この国にとって必要なのは、男系皇族の血筋を絶やさぬ事。その尊い血を引き継ぐ直系の皇子殿下のみ。そこに個人の感情など、どうでも良い、関係の無い事で御座います。憎しみをぶつける相手が必要でしたら、この閻でも、陛下の御正妻である皇后娘娘でも、此れから数多娶る側室方でも、はたまた生まれてくる貴方様の血を引いた御子達でも、好きに憎まれれば宜しいかと。その程度の事で、二千年続いた皇家が存続出来るのなら、有り難い事で御座います」


 そう言って深く頭を下げた閻を、浩然は茫然と見下ろした。

 同じ言葉を喋っている筈なのに、まるで違う国の言葉を聞いている様に感じていた。



 ―――俺を怒らせるために態と言っているのか? いや、……これが、朝廷や皇家の者達の意識なのか……? だとしたら、なんて、―――



 此れまで過ごして来た価値観と全くかみ合わない皇都の考えに、浩然は怒りよりも足元からじわじわと這い上がってくる様な冷たい怖れを感じ、知らずに後ずさっていた。







 夕闇が、皇帝陛下の住まうこの殿舎の直ぐ側まで迫り、―――夜が始まろうとしていた。







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