一. 閻 明轩
閻 明轩は雅安領主の館から街中の宿に戻ると、宿の入口に居た女中に茶を頼み、二階にとってある部屋へと向かった。
部屋の中に入り外出用の上衣を脱いでいると女中が茶を持って部屋を訪れた。
閻は金を支払い茶を受け取ると直ぐに女中を部屋から追い出した。
そうして一人になった閻は、卓の前の椅子に腰を下ろして茶を一口飲むと、腕を組み目を閉じた。
暫く目を閉じて瞑想していた閻だが、次第にその身体が小刻みに揺れ出す。
「くっ、……く、くくっ」
閻の口から押し殺した声が聞こえ、身体の揺れが大きくなる。
閻は身体を折り曲げて衝動を抑えようとした。
だが、我慢など出来る筈も無かった。
「やった。……やったぞ!! 私は誰も追随する事も出来ぬ功績を成し遂げるのだ!!! これで、私の朝廷での未来は約束された物となるだろうっ!!!!」
閻は興奮冷めやらぬ様子で大きく肩で息をしていた。
暫くの間、悦に入った様に機嫌の良さそうな閻であったが、次第に落ち着きを取り戻すと冷めた茶を一息で飲みほした。
そうして冷静になった閻は顎に手をやって何事かを考え始めた。
―――私は、朝廷の誰も知り得なかった直系の皇族男性を見つける事が出来た。あれは、偶然知る事が出来た、正に奇跡のような運の良さだったのだろう。……いや、当時の私の洞察力と、それを結び付ける事が出来た私の直感の鋭さ故か
自分の優秀さに酔いしれそうになるが、そこで閻は首を振った。
―――いや、まだ早い。その息子を皇都へ連れて行くまでは、油断してはならないだろう。それに……
閻は先程領主の館で聞いた、羅家の一人娘であった、亡くなった冬梅とその息子浩然の性格を考慮しながら考えを巡らせる。
―――話を聞く限り、素直に皇都へ来るとはとても思えないな。それに、先頃婚姻したばかりとは面倒な。さて、どうするか……
皇帝陛下の血筋とはいえ、件の息子は今は唯の平民だ。
無理やり連れて行くことは簡単だが、皇都までの道程は長い。
大事な、其れこそ、今やこの国で一番大切な玉体となる身体だ。
下手に抵抗されて、僅かな手傷を負わせるわけにもいかない。
「では、大人しくついて来る様に、此方で働きかけるしかあるまい」
皇族でさえ無い今の状態なら、不敬罪等も関係は無い話だ。
それに、どの様な性格であろうとも、唯の平民から至高の存在である皇帝陛下となれるのだ。
最初は例え渋っていたとしても、十代の青臭い田舎青年を丸め込める事は容易いだろう。
華やかな皇都の様子や後宮で美しい女達を見せれば、まだ若い男なら直ぐに態度を変える筈だ。
そう、例え婚姻したばかりの妻が居たとしても、田舎臭い娘など皇都の美しい姫君達に叶う訳も無い。
平民が皇帝陛下となり、身分高く、美しい女達を己の物に出来るのだから、きっと喜ぶ事だろう。
「必要なのは、皇族の血を繋ぐ事の出来る健康な身体だけだ。後の事はどうとでもなる。それに、もし皇帝と成ることを拒絶するような事があっても、皇都へ連れて行き、即位儀礼さえ受けさせれば此方のものだ。……だが、今この場で皇帝として迎えたいと伝えるのは悪手だろう。全ては皇都に着いてからだな」
閻は皇帝陛下と成り得る青年を探し出した自分が、この先どれ程の権力を握ることが出来るのかと、くつくつと抑えきれぬ笑い声を上げた。
◇◇◇
浩然達と共に皇都へと帰りついた閻は、二人を皇都の高級宿へと案内をした。
本来なら直ぐに皇城へと案内し、朝廷の者達に知らせるべきなのだが、その前にやらねばならない事が無数にあった。
長い旅路の間を共に過ごしたことによって、浩然の性格はある程度把握していた閻には、浩然が大人しく皇帝陛下と成ることを了承するとは思えなかった。
ならば、取るべき手段は限られてくる。
まずは朝廷へと戻り、その血筋の正当性をも含めて浩然の存在を明らかにし、認めさせる事が必要だ。
そしてその後に、どれ程強硬な手段であろうとも、皇帝陛下として即位させるのだ。
閻は朝廷へと戻ると直ぐに候丞相と対面し、此れまでの事情を詳しく話した。
驚き戸惑い、疑っていた候丞相だが、閻の話を詳細に聞く内に、その瞳は大きく見開かれて震え出した。
候丞相は全ての話を聞き、渡された幾つもの書類を血走った目で確認して行くと、放心した様に顔を上げて閻の顔を凝視した。
そして椅子を倒す勢いで立ち上がると大きな声で叫んだ。
「よくやった!! よく、よくぞ、この皇子殿下を探し出し、お連れ申した!! こうしてはおれん。直ぐにお迎えせねば。直ぐに皇宮へ人を遣り、殿舎を整えよ。宿に迎えをっ」
興奮して話す候丞相に対し、閻は落ち着き払った態度で制止した。
「お待ち下さいませ。今のままでは皇子殿下は即位に同意しては頂けないでしょう」
「何? どういう事だ」
候丞相は閻の言葉に、直ぐに興奮から冷静な様子に戻ると眉を顰めた。
閻は浩然が婚姻したばかりのまだ若く正義感の強い青年である事や、その性格等も説明していく。
話を聞きながら候丞相は目を閉じて眉を寄せた。
閻はそんな候丞相の様子を注意深く見ながら、此れまで己が考えていた今後の方針を提案してみせた
「……という点からも、此処はどれ程非道な仕打ちと思われようと、国の為にはこの様に遂行すべきであると私は愚考致します」
「…………至尊の御位にお就きに成られるお方に、その様な事を、……しかし、他に立って頂く事が出来るお方も居らず、その様な事を悠長に考えている時間も我々には残されていない。―――やむを得ん。其方の言う様に、取り計らおう」
「はっ。どうぞ、この閻にその役目をお申し付けくださいませ!」
候丞相は暫く閻の顔を見ていたが、静かに頷いた。
「良いだろう。此度の事は全て其方の手柄だ。……だが、其方に言っておくことがある。今回は、特例中の特例として、皇子殿下の意に反する行いをする事となるが、本来この様な事が許される事は無い。皇子殿下は例え半分は平民の血を引こうとも、それを理由に侮る様な事は許されん。それを然と心得よ」
「勿論でございます。私は皇家へ忠誠を誓っております。皇族の血筋を残す事を最優先として行動致します」
候丞相は口を開いて何かを言いかけたが、ふっと息を吐くと緩やかに首を振った。
「もう良い。儂は此れから直ぐに高位の役付き達と話し合う必要がある。其方は、皇子殿下がお休みになっている宿に警護の近衛武官を手配したら直ぐに会議の間に参る様に」
「はっ」
閻は逸る気持ちを抑えて深く頭を下げるとその場から立ち去った。
その後、朝廷の高位の官吏が長い時間を掛けてどの様にして皇子殿下をお迎えし、即位して頂くかを話し合った。
また、それらの話の最後には、浩然と共に皇都へと来た妻の静麗の存在をどうするかが問題となった。
多くの者達が即刻田舎へと帰すべきだと主張したが、其れには閻が反対した。
「お待ち下さい。静麗殿は、今後必ず必要となる事でしょう。……私はこの場に居る何方よりも皇子殿下の性格を知っております。若いが故に正義感が強い皇子殿下を御する為には、静麗殿を朝廷の手の内に留めおくことがこの先必要になると考えております。それに、一つ確認しなければならない事が御座います。それが済むまでは、静麗殿を帰すことは得策では御座いません」
「確認? 一体何を?」
「それは、……」
閻は朝廷で自分よりも高位の者達を前に堂々と説明をしてゆく。
そして、朝廷からの賛同を得られると、直ぐに行動に移した。
後宮に赴いた閻は女官長に内密の話があると伝え、二人きりとなる様に人払いをさせた。
「女官長殿、急に訪ねて申し訳ない。実は折り入って頼みがあるのです。この後宮で、平民の女性を一人預かって貰いたい」
「平民の女性? 下働きという事ですか?」
「いいえ。取りあえずは賓客として、何処か空いている殿舎、……出来れば目立たぬ場所で預かって貰いたい」
そう閻が言うと、女官長は不快そうに顔を顰めた。
「この後宮の殿舎に、平民の女性を入れるというのですか? その様な後宮の和を乱す行為、許されません」
女官長の不機嫌そうな声にも閻は動じる事無く、そうでしょうね、と同意した。
そして、後宮に預ける女性がどういった立場であるかを説明し、この大国寧波の皇家存続の為にも必要な事なのだと説得していく。
静麗が皇帝陛下と成った浩然を御する為に、また逃がさない為にも、浩然の目の届かない場所に閉じ込める必要が有るのだと告げる。
閻は皇都の美しい姫君達を見たら浩然の気も変わるだろうと考えていた。
今は田舎娘に思いを寄せているが、直ぐに美しい貴族の姫達に夢中になるだろうと。
それまでは、後宮の片隅にでも人質として静麗を放り込んでおけばいい。
そして皇后娘娘や貴位の高い姫達が子を孕むまで、静麗に会うことを禁じれれば尚良いだろう。
女官長が不承不承静麗を後宮に入れることを了承すると、最後に一番大切な話を行う。
閻は懐からある物を取り出し卓の上、女官長と己の中央へと置いた。
それを訝しく見ていた女官長だが、直ぐに何かに気付くとはっとして閻の顔を見上げた。
「閻殿、これは……」
「ええ。貴女の思っている通りの物です。これを使う必要が無ければ良いのですが。……半月程とはいえ、静麗殿は皇子殿下の妻として過ごしています。―――皇帝陛下の第一子は、高位貴族の姫君の胎からお生まれにならねばなりません。万が一にもそれが覆る様な事態が起こってはならないのです。……ですが、もしそのような事態となった場合は……」
そう告げると閻は卓の上に置いた小さな包みを女官長の方へと押し出した。
女官長は暫く卓の上の小さな包みを見詰めていたが、静かに手を伸ばして受け取った。
閻はそれに満足そうに頷くと席から立ち上がった。
「では、女官長殿。此れから忙しくなります。後宮内の事は、貴女にお任せしますので、万事よろしくお願いしますよ」
閻の言葉に女官長は小さく頷くと部屋から出ていく閻を見送り、手の中にある小さな包みに目を落とした。




